キミとの相性 [ 1 ] |
書店の壁に並ぶ、天井まで届く本棚の上から三段目。 数学の問題集はその一段にぎっしりと並んでいた。同じ数学なのに、頻出とか最強とか完全とか色々なうたい文句が背表紙にまで打ち込まれていて、選択する基準がさっぱり分からない。この時点で黒子はげんなりしかけたが、ホイッスルとハリセンを手にした監督の姿を思い出し、仕方なくもう一度顔を上げ、端から端まで眺めてみる。前回のテストの結果が数学だけ芳しくなかったのだ。 (じゃあまあ、あの辺で) 居並ぶ面々の中でも一番穏やかそうなのは「標準」問題集だった。厚みから考えても、あれ位ならやる気を起こせそうだ。しかし手を伸ばしてみると、本に触れらるものの棚から抜き取れそうにない。少し奥にあった踏み台は視界に入らなかったことにして、黒子はあまり好きでない背伸びをした。なんとか中指が隣の本との隙間に入る。そんなタイミングで。 「数学ならそれではない」 ぬっと背後から影が差して不遜な声がかけられた。振り返るまでもない。 ますますげんなりしそうな相手が現れたことに、黒子は踵を浮かせたまま渋面を作った。静かに問題集を抜きつつ後ろを向くと、三十センチ近く上からの視線とかち合う。 「……いたんですか」 「オレが本屋にいては悪いのか」 「悪いなんて言ってません。お久しぶりです。緑間君」 とってつけたような挨拶をするな、とまた小言をくらい、案の定の展開に溜息をつく。顔を合わせればこうなのだ。まともに会話の成立したためしがない。 コミュニケーションの質など気にもかけていなさそうな緑間は、黒子が手に取った問題集を一瞥すると軽く眉を寄せた。 「そんな薄い問題集をやってどうするのだ。その場しのぎにしかならんだろう」 その場しのぎでいいんですけど、などと返事をすれば人生についても説教をされそうなので口を噤む。それに、『それではない』と言うことは彼なりのおすすめがあるのだろう。もしかしたら本当に良い問題集を教えてくれるかもしれない。 (会話さえうまくいけば、の話ですが) 期待一割諦め九割の気持ちで黒子は考え、試しに聞いてみた。 「それなら何がいいんですか」 緑間は本棚をざっと見渡して、ごくあっさり、ないな、と呟いた。顔を上げなくても目線の高さに本が位置している。書店の踏み台とは生涯縁のない人だろうなと、さほど問題集に関心のない黒子はその横顔を見上げていた。黒縁の眼鏡の奥に見える瞳はいつも完璧を求めていて隙がない。 本棚を向いていた瞳はすい、と黒子に照準を合わせた。目が合う前に、自然を装って店内を見渡すふりをする。 「ないなら仕方ありません。これを買っていきます。ボク、そんなにこだわらないんで」 しかしこれに緑間は不快感を露にした。 「だからオマエはだめなのだよ。中途半端なものを買って学力が伸びるわけもない」 「でも売ってないんだから仕方ないでしょう」 「秀徳の近くの本屋には売っていた」 憤然と言う緑間に、そうですか、と黒子は大人しく返事をした。別にその問題集の存在を否定しているわけではないのに、何故そんなに主張するんだろう。 「でもここから遠いので」 控えめに黒子が言うと、だから何だとでも言いた気な視線を寄越される。 「都内だろう。少しも遠くはない。行くぞ」 きっぱりと言って、緑間は黒子に背を向けた。 (………………は?) 最後の一言が理解できずその背を黙って見つめていると、振り返った緑間は、何をしている、とさらに告げる。 「…………あの、行くって」 「問題集を買いに行くと言っているのだよ」 「誰がですか」 「オマエ以外に誰がいる」 「キミとですか?」 怪訝そうな表情を浮かべた緑間に、やはりそんなことはないのだと安心したのも束の間、すぐにその予想が外れだったと知る。 「まさかオレに買ってこいとでも言うつもりか?」 「いえ、そうではなくて」 ここで会話の噛みあわなさが発揮されると思わなかった。黒子は新たに悟る。 (会話だけじゃない、発想も噛み合ってないんだ……) 中学の頃、相性が悪いのはお互い十分に承知していたから、双方必要以上に近寄らなかった。一緒に帰ったことだってなかったと思う。 そんなに長時間一緒にいて、噴火やブリザードが吹き荒れる事態にならなければいいんですけど、と黒子は一人懸念を募らせて、早くしろと急かす緑間の後をついていった。 当然ながら、せっかく手にした問題集を買っておきたいなんて言えるわけはなかった。 緑間の言う書店は、確かに少数精鋭といった品揃えらしい。書籍数は多くないものの、どことなく堅実な雰囲気の参考書や問題集が並んでいる。さすが進学校のすぐ側にあるだけのことはある。 しかし、その中で緑間が手にした問題集を渡されそうになった黒子は、両手を後ろに回してそれを拒んだ。 「絶対嫌です」 「何?!」 「何ですかそれ、辞書ですか」 拒否された緑間は怒るよりも意味が分からず驚いているようだが、それどころではない。今押し付けられそうになっている本の表紙には、ごくシンプルに数学問題解法「辞典」と書かれている。あとは改訂数と著者名だけだ。そのシンプルさが怖い。大体厚さが本当に辞典並みだ。 「これのために来たのだろう。中を見てみろ」 「嫌です。そんなの絶対解き終わるわけないじゃないですか」 「全部解けとは言ってないのだよ」 「じゃあどれを解くのか書いてあるんですか」 「それは自分で考えろ」 「無理です」 「キサマ……」 そんなこと言われたってどう頑張っても無理だ。きっといいものなんだろう。それは本の佇まいからしても分かる。でもそれは、数学が好きで得意でやる気に満ち満ちている人にとっての話で。完全文系でとりあえず次のテストを乗り越えるのが目標、という自分には敷居が高すぎる。 短い溜息が聞こえ我に返れば、咎めるような視線が注がれていた。影を落とすほど長い睫毛は柔らかい印象とは対極だ。それに縁取られた目は静かだけれど貫くような眼光で、黒子という人間を見通す。 (またですか) どんなにきついことを言われるより、この目の方が苦手だった。中学の頃何度も味わって、このときだけは目を反らしがちになった。これに出くわすのは大抵、走っている最中に倒れたとき、自分でするテーピングに失敗して巻き直しているとき、ざっくり言ってしまえば、自分の能力不足を緑間が感じているときだった。 (でも、それは無理です) 平積みされている他の問題集の上に、その本はどすんと立っている。それを緑間のきれいにテーピングされた指が支えていた。支える必要もない厚みだけれど。 高校に入って少しは良くなったと感じられた関係がまた元に戻ってしまうのかと、向上しただけにそれを失うのが惜しい気もしたが、ここで半端に妥協する気にはなれなかった。何より、そんな形で保たなければならない関係の方が嫌だった。 「……強情なヤツだな」 「…………キミこそ」 でも言い返さずにいられない性格は直せない。緑間は黒子から目線を外し、黙ってその厚い辞典を棚に戻した。多分このまま、勝手にしろと気分を害して帰ってしまうのだろう。それは仕方のないことだ。無理矢理連れてこられた感があるとしても、彼は親切のつもりなのだろうから。 「…………え?」 横を向いたままの黒子だったが、新たに差し出された問題集に意表をつかれた。それは黒子が当初選ぼうとしていた問題集の倍ほどはあったが、先ほどの辞典の半分もない。頻出問題演習、とまた愛想のないタイトルではあるが、辞典なんて単語は印字されてないし、多少なりともとっつき易くなった。 「譲ってこれだ」 ぽかんとして素直に顔を見上げれば、緑間は多少不満気ではあるものの、不機嫌という表情ではなかった。黒子の表情をどう受け取ったのか、わざわざいかめしい口調で付け足す。 「これ以上はオマエの我儘は聞かないのだよ」 「…………我儘ではないと、思いますけど」 我儘以外何なのだ、と言う声が今までと違って聞こえるのはどうしてだろう、と黒子は不思議な気持ちで問題集を受け取った。 「ありがとうございます」 礼を言って、レジへ向かう。やっぱりこれも厚いな、と思ったが、それ以外の問題集を選びたいと思う気持ちにはならなかった。 会計を済ませて緑間を探すと、同じ場所に立ったままあの辞典を手にして、首を捻っているのが見えた。 >> 続 |