秘密の場所 [ 16 ] |
くしゅん、と耳に入った音に、目をぱちりと開いた。やけにすっきりした目覚めだった。目の前の黒子は、くしゃみをしたというのに起きる気配はない。身体を少し丸めただけで、眠り続けている。 掛け布団を肩の上までそうっと引っ張り上げた。肩がむき出しである当たり前のことにどぎまぎし、カーテン越しに外を見やる。まだ夜は明けていない。できるだけ寝ていてもらおう。 何時間か前までは触れることもできなかった黒子が、十センチも離れていない距離に、服も着けない状態でぐっすり眠っている。 白い頬が、形のいい耳朶が、どんな風に赤く染まって、冷静に言葉を紡ぐ唇が、熱に堪えきれずどんな風に声を乱すか。 初めて知って得た記憶が、身体の中に吸い込まれていく。知れば知るほど、想う気持ちが重なり積もる。 気付けば吸い寄せられるように、顔を唇に近付けていた。目前にきて、はっと動きを止める。誰に見られてもいないのに目を泳がせて、ついでに首も巡らせた。 (…………しないっスよ、まだ) それはもうちょっと、黒子君に認められてから。 すよすよと眠る黒子に起きる気配はない。キスをするのを我慢した分、もうほんの数センチ、息遣いが分かる距離に隙間を詰める。 前髪が一房、変な方向に跳ねていた。何でここだけ?と思いながら目覚めない程度に絡めて遊ぶ。早く起きて欲しいような、でももうしばらくこのままでいたいような、そんな気持ちだ。 指に絡めた、クセと言うほどでもないクセのある髪をくるりと回して、ああそうだ、とふと思い出す。あとでドライヤーを持ってこないといけない――――と。 (……――――え?) 髪を弄ぶ手が止まった。 『 ドライヤーを 持ってこないと いけない 』 ? 何で、と問うのと答えは同時だった。 (…………だって、寝癖がすごいんだ、) 黒子っち の 。 「 ――――――― 」 どこを探しても見つからなかった記憶は、凍っていた壁がいきなり溶け出したように、一斉に頭の中へ流れ出した。 ◇ ◇ ◇ 呆然としていたのはどれ位だっただろう。今までのことを思い出したあと、記憶を失っていた間のこともまとめて思い出した。思い出したというより、覚えていた。頭を打った日のことも、記憶をなくして初めて部活に出た日のことも、キセキのメンバーと“初めて”会った日のことも、全部。 (信っじらんね……) 黒子の隣に座ったまま、立てた膝の上に顔を埋める。 苦々しい顔、呆れた顔、心配する顔、それぞれの彼らの顔に混じって、ことさら強く黒子の記憶が現れる。思い出すほどに血の気が引いていった。最も恐ろしいのはあの公園での一件だ。 (無理、矢理、とか) あの黒子っちに。 その上、彼が動じないことに、態度を変えずにいてくれることに安心して、今度は好きだと言って甘えた。 (オレなら分かったのに) 好きになった、好き、好き、と繰り返すほど、黒子の返事は遅れた。黒子君、と呼ぶと素早すぎるほどいつもの彼に戻った。 必要以上に抑えられた声も、手を止めると不安げに揺れた視線も。 黒子っちを知ってるオレなら気付けた。 黒子っちが知ってるオレなら、黒子っちにそんな不安はなかった。 (ごめん) 膝に伏していた顔を上げ、手を伸ばす。ほのかに青く柔らかい髪の中へ、静かに指を差し入れた。黒子に目覚める気配はない。 (ずっと、気、張ってたスね) 「ごめん…………」 声にするつもりはなかったのに、知らず音になっていた。黒子の目蓋が重たげに動く。相当眠いらしく、持ち上がりきれずに何度もぱたりと下へ落ちた。多分、まだ自分のことを気にかけているのだろう。 「まだ寝てていっスよ、黒子っち」 顔を近づけ、囁く。髪を一度撫でてから離すと、目をこじ開ける戦いを手放しかけた黒子は、そこで今までが嘘のようにはっきりと目を見開いた。 「…………」 (あ、オレ今) 今の呼び方で、記憶が戻ったことに気付いたのだろう。大きな目が瞬きもしないでこちらを見つめた。まったく感情の読めない視線が真っ直ぐ伸びてきて、縫い止められて動けない。 「…………」 黒子っち、と呼ぼうとするも声にならないでただ見つめ返していると、黒子の唇が薄く開いた。息が詰まる。 「…………きせ、くん…………?」 きれいな湖の底から汲み上げてきたような、そんな声だった。大切にこぼれないように、両手で掬いあげられた。そんな風に名前を呼ばれたことなんて、人生で一度もない。 「……うん、黒子っちごめん。いっぱいごめん」 返事もなく動かないままの黒子の瞳に、透明な膜がかかった。何一つ変わらない表情のまま、目の縁から涙がつるりと流れて落ちる。 (…………っ) 見ていられなくなって、頭ごと胸に抱きかかえた。 「…………ごめ……」 胸に温い滴が触れる。黒子っち、と呼ぶと、また一滴分じわりと広がる。 「…………いつ、思い出したんですか」 されるがまま、まるで動かなかった黒子は、一通り涙を流しきったのか、落ち着いた声で話し出した。 「さっきっス。黒子っちの寝顔見てたら」 「人の寝顔を見るのはやめてくださいと言ったでしょう」 「す、スマセン……」 でもこれからも見るっス、と心でもう一度詫びる。 はあ、と大きく溜息をついた黒子がその陰でぐす、と鼻を鳴らす。彼は泣き顔を隠さないが、自分が見ていられないのだ。腕に力をこめると、その中で彼は、そうだ、と言った。 「聞きたいことがあったんです」 「オレは黒子っちが大好きっスよ」 「帝光時代のDVDなんですけど」 「もう平常運転スか黒子っち……」 キミもですよ、と睨まれる。上げた目の縁がまだ赤い。ああ、まだ戻ってなかった、と腕を狭めてもう一度胸に抱える。黒子は話を続けた。 「二年のときのってもう処分しちゃいました?」 「まさか」 そういう発言がつれないんスよね、と拗ねてみるが、黒子が帝光時代の話をしてくれるのは嬉しい。それに、自分のためにこの部屋で大捜索してくれたことも嬉しい。“自分”が一緒でなかったことが、本当は悔しいはずなのにそれも含めて。 「でも全然見つからなかったですよ」 「そりゃそうっスよ」 「?どこにあったんですか」 「それは、黒子っちにも言えないところっス」 胸を張って誇らしく言ったのに、返ってきたのはそれは知っていたと言わんばかりの声だった。 「ああ、忘却の彼方ですか」 「ちょっ、違ーう!オレの、宝箱!」 「は?」 言い切ると、黒子は再び顔を上げた。 「黒子っちと初めて一緒に出た試合っスよ!そんなんそこらに置いとくわけないじゃないっスか!」 「…………」 「だから隠してあるんス」 呆れたようにぽかんとしているのがひどい。宝ものを宝箱に入れて隠すのは当たり前なのに。 しかし黒子は、驚きもそのままに、さらに呟いた。 「迷惑……」 「えええ」 「ボクと黄瀬君の労力を返してください」 「え!黄瀬はいいじゃないっスか、オレっスもん」 「良くないですよへとへとでした」 「……黒子っち、めちゃ優しかったっスよね、あのオレに」 むー、と口を引き結ぶと、黒子は小さく笑い、上げていた顔を眠たげな目と共に伏せた。記憶が無いときのことも覚えてるんですね、と言う。 「覚えてるっスね。こういうのって忘れるモンかと思ってたけど」 多分、死ぬ気で覚えててやると思ったのが効いたんだろう。 「…………黒子っち?」 「はい」 それきり黙ってしまった黒子に、寝ちゃったかな、と思えば意外とすぐに返事が戻った。戻ったが。 「…………」 ほとり、と片目からまた一粒涙が落ちた。ほとんど消えかかっている声で、黒子が何か言う。もう一回、とお願いすると、今度はかろうじて聞き取れる声で、良かったです、と返してくれた。 思い出せて。 覚えててくれて。 良かった。 そう途切れ途切れに。 「…………くろこっち」 そろりと伸びてきた手に、頭を撫でられた。急に子供になった気がして、じわりと視界が滲む。 そういうことされると、なんか戻る気がするからやめて、と訴える。 どうしたらいいか分からなくなっては触れてきてくれた、あの体温を、あの手を思い出すから。 「あの黄瀬君はかわいかったです」 「オレもかわいいっスよ」 「まあ……そうですね」 泣いてる黄瀬君は、多少、とちょっと楽しそうな黒子の指が目元に触れた。その指先を取って、口に含む。 「あ」 「そゆこと言うからっスよっ」 「……しょっぱくないですか」 「ん、ちょっと」 「やっぱり」 指に口付けながら話すなど、いつもなら叱り付けられるはずがそれはなく、視線だけが唇に静かに送られた。調子に乗って、唇でそっと食んでみる。 ふ、と上げた目に、呼ばれた気がした。 「うん」 返事をすると、黒子の目が和らいだ。顔を傾げて、唇を合わせる。合わせてるのに、まだ足りないような、恋しい気持ちが沁み込んでくる。 (ああ、そうか) さっきの分だ。あんなに触れ合っていた間も、キスをしなかった。したくて、でもしてはいけないと思って、できなかった。二人分の自分の感情が混ざっていく。 唇の隙間から、きせくん、と呼ばれた。きゅう、とまた胸が痛くなるような澄んだ声だ。黒子は気付いてるんだろうか。どこからその声は出てくるんだろう。 自分の声がそこに届くといいな。 そう思って、彼の名を呼び、あたたかい胸に触れた。 [ 完 ] << 戻 |