秘密の場所 [ 15 ] |
寝たらだめだ、と思いながら落ちてしまったからだろうか、体力の限界を超えたわりには夜更けのうちにぼんやりながら覚醒した。目の前に、すうすうと眠る黄瀬の顔がある。陰りのない健やかな寝顔に安心したが、身体は石のように重くて動かない。自由にできるのは瞬きだけだ。 (無茶してくれます) “黄瀬”もそうなると日頃の甘やかしい雰囲気と打って変わって激しいが、この黄瀬は遠慮がある分感情を抑えがちで、その分反動が大きい。途中、いきなり行為が激しくなったのもそのせいだろう。 (でも何で……) これでいて、黄瀬は我慢強い方だと思う。抑えたものが溢れるにはきっかけがあるはずだ。治まり方も不自然だった。自分を腕に閉じ込めていた彼の身体が、何かの痛みに竦んだのが分かった。 あのとき、黄瀬に何があったのか探ろうにも、自分の呼吸もままならない状態では考えることもできず、でも黄瀬を離してはいけないとそれだけで。ともかくそのまま待機、と告げるのが精一杯だった。本当はそんな殊勝な性格じゃないくせに、触ってさえいればいくらでも図々しくなれるくせに、あの黄瀬はすぐに離れようとするのだ。 (まったく、手のかかる人です) これが“黄瀬”だったら、ここまで甘やかさないだろう。でも甘やかすのは黄瀬が“黄瀬”だからだろう。 何してるんだか、と笑おうとして、うまく笑えなかった。歯が一度だけカチ、と鳴った。今頃緊張してきたらしい。 できる限り、行為に飲み込まれないようにするつもりだった。黄瀬の様子をまともな状態で見ていたかったし、彼の前で自分を保てないのは怖かった。黄瀬と“黄瀬”の区別がつかなくなるのが怖かったのだ。 でもこのまま、記憶の戻らない状態が続けば、いずれ一つになる。黄瀬はもっと、元の性格を取り戻していく。今だってほとんど重なっていると言っていい。その証拠に自分はついさっき、黄瀬が黄瀬でないと意識することさえしていなかった。 そうやって、慣れるのだろうか。こんなことを考えることもなくなるのだろうか。 整った寝顔には、何一つの違いもない。”黄瀬”はそこにいる。 (……、きせ、くん) 話しかけ、途端に息がうまくできなくなって目を閉じた。 だから嫌なのだ。別の人間だと、意識を分けておかないとこうなる。 閉ざした目蓋の裏側に、目の前にいて、目の前にいない“黄瀬”の、満面の笑顔が映る。 『 黒子っち 』 最後に耳にしてから、何週間経ったんだろう。 自分を見つければすぐ、そう笑顔で呼ぶ彼を最後に見たのはいつだっただろう。 メールの間が空いたことに気付いていた。だけど自分から連絡はしなかった。 黄瀬に好かれることを当たり前とは思っていなかった。ただ、夥しい数のメールも、電話も、名を呼ばれることも、日常になっていた。 最後に会ったのがいつだったか正確に思い出せもしない。何時にどうやって別れたのかも。 覚えているのは、声と笑顔だけで。 薄く目を開き、息を吐いて、思考を止めた。黄瀬の首元を何も考えずただ眺め、しばらくして目蓋を降ろす。身体の疲れは、簡単に眠りの底へ意識を引き込んでくれる。 沈む意識が何かに触れる。心の奥の裏の裏、深くて見えないところに隠した小さな箱だ。自分でもすぐには見つけられない秘密の場所に、それはある。 (……黄瀬君) 眼前に変わらずあるだろう穏やかな寝顔を思い浮かべ、どうか彼に見つかりませんように、と最後の意識の中で願った。 眠りと引きかえに、箱は開く。閉じ込めた言葉が、浮かび上がる。 (黄瀬君) ( きせ くん ) キミに あいたい 水面の光を目指して上昇していく言葉を、意識の底から見送った。 >> 続 << 戻 |