standin on the edge 番外 [ 1 ] |
「オマエ夜は向こうに帰るんだったよな?」 今晩の食事当番である福井に聞かれ、手伝いをしていた黒子は恥ずかしいような申し訳ないような、なんとも複雑な笑顔を返した。住み込みで働かせてもらっているこの靴屋の主が、ほかの職人たちに知らせておいてくれたのだろう。 「後片付けができなくてすみません」 「そんなのアイツらにやらせりゃいいんだよ。いつもオマエがやってやるから、最近じゃすっかり甘えて動きやしねえ」 細いつり目で悪態をつくが、口の悪さと見た目に反して彼は面倒見がいい。土曜の夜や日曜の食事当番が基本彼であるのもそれが理由で、誰かの好物やほんの少し豪華な何かを作ってくれるから、楽しみな週末は彼の料理がいいのだ。今も、オマエがいねえならこれは来週にしとくか、と何かの瓶を棚に戻している。ここへ来てまだひと月だというのに、すっかり仲間のように扱ってくれるのが嬉しい。 「暗くなる前に迎えがくるんだよな?」 「すみません、いいって言ったんですけど……」 言うと、彼は面白そうに口の端を上げた。 「普段離れてんだ、早く会いてえもんだろ」 そう言われ、まあ、とかはい、とか曖昧な返事をする。そう言われてみれば特段気にすることでもないと思うのだが、週末彼らが家に帰るとき、彼らの家族が迎えに来ている姿を見たことはない。黒子がまだここでの暮らしに不慣れなことは事実で、それが親切心からだと分かっていても、過保護な気がしてしまう。実際、気ではなく彼は黒子に対し過保護なのである。 「でも来るまではお手伝いできます」 「当番じゃねえんだから、休んでりゃいいってのに」 でも黒子が好きでここにいるのを知っているから、いつも何かしら教えてくれる。おかげで材料や調理道具の名前もだいぶ覚えた。こぽこぽと湯の沸く音を聞きながら使う予定のスパイスを聞いて棚から取り出す。種のようなそれを挽いた方がいいのか、塊のままでいいのか確認しようとしたときだ。工房の方から名前を呼ばれた。福井と顔を見合わせる。 「来たんじゃねえ?」 「……予定よりだいぶ早いと思うんですけど」 「まあ行ってこいよ」 言われ、頭を下げてその場を離れようとしたときだ。黒子より頭二つ大きいここの主が扉から現れた。 「岡村さん」 「おう、やっぱりここか。支度せい。もう外におるぞ」 「え」 もう二時間はあとだと思ったから、まだ何の準備もしていない。一泊帰省するだけだから大した準備もないのだが、何せ今は夕飯の手伝い真っ最中だ。そのままでいいぜ、と福井は言ってくれるが、広げっぱなしで出るわけにもいかないだろう。 「しかし数年ぶりに会ったが、美男子になったのう」 半端に出したスパイスをまとめたりエプロンを外したりする黒子を待ちながら、岡村は羨ましげな様子でそう言った。思わず手を止め、大きな彼を見上げる。 「黄瀬君に会ったことがあるんですか?」 「笠松の店で一回だけな。すぐ引っ込んでしまったから、あっちは覚えとらんじゃろ」 黄瀬を拾った笠松と岡村は靴屋仲間だ。その繋がりで黒子はここに半年間の弟子入りをしているのだが、黄瀬は岡村を知らない様子だった。自分の知らない場所に黒子を一人で行かせるのが嫌だ、というのも過保護な黄瀬が渋る理由の一つだったのだ。 岡村の言葉に驚いたのは黒子だけではなかったらしい。福井もお玉を片手に声を上げる。 「黄瀬って、あの空も歩く異能? アイツが来てんの?」 ――あ。 これは説明すべきか何も言わないでおくべきか。黒子が岡村に視線を向けると、何故か黒子の背を誉めるようにばしばしと叩き、 「もう普通の人間じゃ」 な、と黒子に同意を求めた。背を叩かれ噎せたせいで返事はできなかったが、頷きは伝わったらしい。へええ、と心底意外そうに福井は声を漏らした。 「なる奴はなるもんなんだな」 「そのうちアイツもなるじゃろ」 誰のことだろう、と思ったが、聞く前に再び黒子に話を戻す。 「早く行ってやれ。そわそわ店の中覗いておった」 「……黄瀬って人前にゃ出ないって話だったよな?」 「ワシらに見つかってうろたえとったわ。人間変わるもんじゃのう」 「お騒がせしてすみません……」 「黒子が謝んの?」 はっはっは! と岡村は楽しげに笑うが、福井は口をぽかんと開けたままだ。以前の彼を知る者には驚きなのだろう。黒子も出会った当初を思い起こせば随分変わったと思うが、変わってからの黄瀬の方が黒子にとっての黄瀬だ。だからそういう反応を見ると、笠松や森山、それに黄瀬自身の話の中からちらほらと聞いた「以前の黄瀬」の姿が本当なのだと分かる。 笠松と一部の数人を除けば誰とも関わらなかった、空も歩く異能。歩けば人の目を集めるほど整った外見なのに滅多に人前に現れず、能力を見せることもない。人嫌いで人間不信、愛想どころか話しかける隙さえ見せない。表社会で生きる一般市民――特に女性たち――にとってはある意味遠い憧れの王子様だが、裏稼業で彼を知るものには舌打ちしたくなる存在だ。 ここ地上の裏社会には、獲得屋、という仕事がある。依頼人の求めに応じ、獲得困難なものを入手し、それを引き渡す。金を積んで買えるような容易いものは依頼に入らない。猛獣たちの森に生息する薬草だとか、一生かけても辿り着けない場所に埋められた鉱石だとか、普通の商人ならば命を優先して手を出さないもの。その中でも最も難易度が高く、相応に報酬も高値の依頼を黄瀬は端から片していった。黄瀬が入手したあと横取りしようとした輩もいたが、能力で逃げられるか、そもそも高い身体能力で撃退されたらしい。 空も歩く、と言われるだけあって、黄瀬は糸の一本でも渡っていれば崖から崖を渡り歩くことができたし、枯れ葉でも浮いていれば波の上にだって立てた。彼ならばどこにでも行けて、人には見つけられないものも見つけられる。だから黒子は、黄瀬の仕事を采配している笠松を通して依頼をしたのだ。 この世のどこかにある聖地・天宮から、<黒子テツヤ>を獲得し、地上に降ろしてほしいと。 天宮など昔話の伝承でしか人は知らないし、物心ついたときから天宮にいた黒子もまた、地上へ降りる方法など知らなかった。天宮からの脱出はご法度である。だからそんな依頼をかけられるのは彼らしかいなかった。 ダメ元での依頼だったが、報酬を払うことなどできないと分かった上で笠松は依頼を受け、黄瀬は黒子を天宮から連れ出し、さらに彼の拠点となるこの土地まで連れてきてくれた。 ――その途中、黄瀬の能力は失われてしまったのだけれど。 能力を少しずつ失っていくことも、その状態で黒子を連れて移動することも黄瀬にとっては過酷だった。ここへ辿り着いたときには倒れて動かなくなったほどに。でも彼は、黒子を途中で置いていくことはしなかった。 だから世間で思われているような黄瀬のイメージは、黒子の知る黄瀬にはほど遠い。何でもできて何にも執着がない、それは事実だったかもしれないけれど、見えないところで苦しんで傷ついている人だった。冷たいと感じたことは一度もない。黒子はいつの間にか黄瀬を好きになっていて、黄瀬もまた同じだった――らしい。それが黄瀬の能力が消える始まりだったことを考えると黒子は少し複雑だけれど、能力があった頃の孤独さが消え、今ではのびのび生き生きしているから、良かったのだと思っている。 岡村を始めとする職人たち全員に挨拶をして、黒子は工房の裏手から外へ出た。辺りを見渡したが黄瀬の姿はなく、離れた丘のふもとに見慣れない栗毛の馬が繋がれているのが見えた。以前馬車は嫌いだと言っていたが、もしかして馬で来たのだろうか。そうだとしても、何故あんな離れたところに繋いでいるのだろう、と色々不思議に思いながら、店の壁沿いを歩いてみる。すると二階の窓の下、東向きの壁に、寄りかかっている黄瀬の姿を発見した。遠くの山と空をぼんやりと、でもどこか熱心な様子で見つめている。どんな絶景も醒めた目で眺めていた彼が、なんの変哲もない、ただ黒子に与えられた部屋から見えるというだけの景色を見つめ続けているのかと思うと、天宮にいたころには感じたことのなかった感情が胸に満ちてくる。ふわりと温かい、愛おしい、という気持ちをそっとしまって、黒子は口を開いた。 「随分早かったですね」 黄瀬は、わ、と驚いた声を上げて、ぱっと身体を起こした。 「黒子っち!」 「いつから待ってたんですか」 「ちょっと前っス、昼まではちゃんと働いてたし」 「昼まで?」 「あっ、サボりじゃないっスよ、その分昨日までにクリアにしてきたっス!」 両手をあわあわ動かしながら言い訳を並べてきたが、責めたわけではない。今回はそもそも笠松を巻き込んでいるのだから、了承済みなのだろうと黒子も察してはいる。しかし真面目に働かないと黒子の心象がよろしくないと知っている黄瀬は、その辺りを前もって主張してくる。 自分たちの休みは基本的に日曜だけだ。だから黄瀬の家に帰るのもいつも日帰りなのだが、何故か先月から、この週末だけは土曜の夜から帰ってきてと言われていた。理由が分からないので黒子はあっさり断ったのだが、なんと黄瀬は笠松に頼み込み、いつの間にか岡村にまで話を通していた。 土曜夜から家族の元に帰る者は珍しくない。黒子だってそうしていいと言われている。けれど黒子の見習い期間はたった半年で、休みの日だって学ぶことはたくさんある。靴作りのことだけでなく、地上の生活だって黒子はまだ知らないことが多い。買い物も料理も、洗濯だって新鮮だ。彼らから色々な話も聞きたい。黄瀬に会いたい気持ちはあるけれど、半年経てばまた黄瀬の家に帰るのだ。だからここでの時間を優先させていたのだけれど、今回はどうしても譲れなかったらしい。 「……怒ってる?」 目の前まできた黄瀬が、そっと指先を掬い上げた。 「怒ってません」 「勝手に連絡したのに?」 「はい。ちょっと驚きましたけど」 でもそこまでした理由はなんだったのだろう。黒子がじっと目で問うと、黄瀬はややバツの悪そうな顔で目を横へ逸らした。 「……大したことじゃ、ないんスけど」 大したことじゃないなら、笠松だって頼みを聞いたりはしないだろう。前々から言っていたのだから、突然何かの事件が起きたわけでもないはずだ。続きを待っていると、黄瀬はさらに小さな声で言った。なんだか子供のように、もじもじとしている。 「…………たんじょうび」 「――え」 今、誕生日、と言ったか。誕生日。生まれた日だ。お祝いをする日なのだ。先月福井の誕生日があって、黒子は初めて知った。いつもより料理が豪華だったし、皆が口々におめでとうと言っていた。贈り物をする習慣があるとも、本で読んだことがある。 「つっても明日なんスけど……、……あの、黒子っち?」 「…………」 どうしよう、と黒子は固まった。 贈り物の用意どころか、「誕生日のお祝い」に関する経験がほとんどない。天宮では個人の誕生日など年齢を数えるためのものでしかなかったから、この間皆に混じった日が初めてのお誕生会だったのだ。美しい長い髪を切ったり時計を売ったりしようにも、黒子はどちらも持っていない。 大したことじゃないと言いながら黄瀬が帰ってきてと言ったのも、笠松がそれを聞いて計らってくれたのも、「誕生日」が特別だからだ。 「呆れてる……? って、え、なに?」 「非常に、言いづらいんですけど」 そっと掴まれていた手を逆にがしりと掴み返し、黒子は言った。これはもう、黄瀬に聞くしかない。天宮と地上では生活も習慣も違う。同じなのは朝起きて夜眠ること、食事や入浴をすることくらいだろう。黒子が天宮から脱出してきた元守護官で、地上に降りてまだ三ヶ月のほやほや地上人であることは、黄瀬と笠松しか知らないのだ。 「お誕生日って、何をするものですか」 「へ」 「贈り物をしたり、お祝いをすることは知ってるんですけど、どういう風に……あの、」 ぽかんと口を開いた黄瀬からの返事がない。本人に聞くのはマナー違反だったのだろうか。そういえば福井の誕生日も、その日の夜にみなが後ろでひそひそと合図をしていた。誕生日を知らなかったのはやむを得ないにしても、正直すぎたかもしれない。それに贈り物、はどうしたらいいだろう。 「黒子っちもしかして、誕生日のお祝いってしたことない?」 悩み始めたところで、黄瀬にそう尋ねられた。 「……ないです」 「自分の誕生日は?」 「知ってはいますけど、」 いい思い出はない。黒子にとって誕生日は、任期の残りを数えるための目安でしかなかった。誕生日が何度過ぎても、黒子の能力が認められることはなかったから。 思い出してつい目を伏せたら、ふっと影ができて、額に柔らかいものが触れた。 「っ」 こんなところで、と驚いて文句を言おうとしたが、黄瀬の表情にその声は引っ込んでしまった。柔らかく包みこむような声が、静かに続く。 「誕生日いつ?」 「…………一月、です」 「じゃあ黒子っちの今年の分も、一緒にお祝いしよ」 そういうこともありなのか、と黒子が黄瀬の言葉を聞いていると、手を繋ぎ直された。顔を見ると、にっと笑う。 「そうと決まれば、閉まる前に急ぐっスよ!」 「閉まる?」 早く来て良かった、と急に上機嫌になった黄瀬に首を傾げたが、その理由は三十分もしないうちに分かることとなった。 ◇ 「どう考えても買いすぎだと思います……」 「えー? 必要なものも買ったんだし、これくらい普通っスよ。それに誕生日ってね、細かいことは言わないもんなんスよ、黒子っち」 そうだとしてもその誕生日は黄瀬のもので、突然町に寄っていこうと言った彼が買ったのは黒子のものばかりだった。そんなにいりませんと何度言ってもまったく聞く耳を持たないのは出会った頃から変わらない。あの頃はプレゼントなんてものではなく、旅に必要なものを黄瀬が問答無用で買い揃えていた状態だったけれど、基本的に彼の買い物量は黒子の思う十分値を遙かに超えている。 二週間ぶりに帰ってきた黄瀬の家で荷物を下ろせば、板張りの床の一隅が埋まった。馬はすごい。黄瀬と黒子を乗せた上、さらにこれほどの荷物までも悠々と運んでくれた。その馬を手配し黒子の休みまで確保させた黄瀬の準備万端ぶりもすごかった。テーブルの上には既に二人分の食器が並んでいるし、奥の方にはいくつかの鍋やパンまで待機している。上着を脱いでひと心地つけば、おいしそうな香りが漂っているのが分かる。 しかしつい、むむ、と口を結んでしまった。これらは本来、誕生日を迎える本人が用意するものではなく、周りがするものなのだろう。今のところ黒子からのお祝いは何もないのだ。買い物袋の中身に黄瀬のものはほとんどないし、そもそもすべて彼が買ったものだからプレゼントにはならない。 「はい黒子っち、……って何難しい顔してんスか」 荷物の山を睨んでいる間に、黄瀬がぶどうジュースを持ってきてくれた。自然に受け取りかけて、しまった、と気付く。ここでも遅れを取ってしまった。せめてこれからの支度くらいは黒子がやらないと、黄瀬の誕生日祝いにならない。再び台所に目を向ければどれもこれも完成の様子であるが、ささやかでもできることはある。 「黄瀬君、今日の晩ご飯はボクがよそいます」 「ん? うん、ありがとう?」 「パンも切りますし、胡椒も挽けるので、いつでも言ってください」 あの鍋肌に一筋落ちているスープの色からして、二人とも好きな魚貝のチャウダーだ。仕上げの胡椒は挽き立てがいいと言っていた。 ぱちぱちと瞬きを繰り返している黄瀬は意図が分かっていないようだけれど、それならむしろ好都合だ。ひっそり何かをしてあげる――それがお誕生日らしいことは学習済みである。まずは最近、真っ直ぐ切れるようになったパンから取りかかろうと、ジュースを飲んで台所へ向かう。 「ではボクはパンを……うわ」 しかしたった数歩で、後ろから腹に回ってきた腕に歩みを止められた。覆いかぶさるような格好で、黄瀬が背後に貼りついている。 「ちょっと、なんです……」 振り返って問いかけた口はあっさり塞がれた。しかし唇は優しく重なっただけでそっと離れ、ぽかんとしている間に前に回り込んだ黄瀬が、再び近づいてくる。 「き……、」 「飯食ってから、って思ってたんスよ、一応」 「……」 「でも我慢できなくなったっス」 かわいいんスもん。無理。言い方はかわいいくせに、醸し出す空気はかわいいどころか濃密だ。 帰ってきた以上そうなると思ってはいたけれど、まだ日は落ちたばかりだ。軽く触れるだけという雰囲気ではない。黄瀬はもう本気の目をしている。黒子だって嫌なわけじゃないけれど、何故急にその方向に行ったのか。戸惑っているうちに黄瀬の唇は触れる直前まで近づいていて、思わず俯いた。薄く開いているそれの、濡れた色を意識した自分が恥ずかしかった。そっと頬に手をかけられて、顔が余計に熱を持つ。 「黒子っち」 呼ばれ、観念して目を閉じた。ああ、また、と思う。また、黄瀬のものになる。 戸惑っている内心も、それだけではないことも、変えられる身体も、黄瀬は黒子にすべて晒すことを望む。黒子はそれらを欲しがるまま、望み通りに明け渡す。それが黄瀬のもの、でなくてなんだろう。 頬に触れた手は難なく黒子の顔を上げさせ、再び優しく唇を塞いだ。 こういう行為に、最初は少し恐れがあった。 天宮の人間は、天と、地上の人々のためにある。自らの欲求・欲望は己で制御し、克服すべきものだった。しかしあそこにいる守護官は三歳から十九才の男子たちで、成長するにつれ、身体は生理的なものの発散を求める。だからそうした方面の教育もあった。 授業によれば、その欲は我慢せず定期的、かつ事務的に処理をして、速やかに頭と身体から追い出してしまうのがよい、ということだった。自然の摂理であるから仕方がない。けれど、その欲に振り回されることは恥ずかしいことである。決して耽溺することのないように、と。 他人と比べることも、そうした会話をしたこともなかったから分からないが、黒子はあまり欲が強くない方だった、と思う。我慢らしい我慢はなかった。だけど。 「……考えごと?」 「あっ」 突然甘い刺激が背に走り、考えは中断させられた。 「なあに黒子っち、物足りなかった?」 「や、あ、ちが、」 指の腹で優しく撫でられていた胸の先を、きゅうと摘ままれた。そのまま指先で潰すように捏ねられて、もう片方は爪先で引っかかれる。腰の奥に溜まる重い熱と、瞬間で全身に走るような痺れを同時に与えられて、首を左右に振った。痛痒い刺激に跳ねる身体は次第に、もう片側からの快楽に侵されて力が抜けていってしまう。 「あ、あ……っやぁ……ぅ」 欲は強くないはずだった。振り回されることもなかった。でもそれは、知らなかっただけなのだ。自分の身体がこんな風に反応するなんて、想像もできなかった。 「……ん、いい顔」 言うと、黄瀬は指の力を弱め再び優しく転がしていく。強い刺激のあとのそれはもどかしく、けれど先ほどまでの余韻を身体に広げ、与えられるままに快楽を溜め込んだ。黄瀬の手は何か特別な能力があるのでは、と思うくらい、黒子の身体を簡単に昂ぶらせる。普段は黒子を落ち着かせる手のひらも、意図を持って触れられればまったく違う感覚をもたらすし、器用な指先はなおのこと、黒子をおかしくさせる。 「ゃ、……や、……も、ゆび……」 触れあい始めたばかりなのに、こんな性急に高められるのは困る。胸をするのをもう止めてほしい、と沈んだベッドの中から訴えると彼はやや満足したように目を細めた。しかしランプの淡い光に照らされた顔を見てほっとしたのも束の間、顔が同じ場所へ近付いていく。 「きせく、……っ」 思った通り、指で苛まれたそれは柔らかく口に含まれ、唇の上で転がされた。甘く伸びた声を抑えようと身じろげば、両手首をまとめて頭上に縫いとめられてしまう。 「だめって言ったでしょ」 アンタの全部がほしい、と言ってきかない男は、声も我慢させてくれない。だったらいつものように口ごと塞いでくれればいいのに、さっき一瞬気を反らせただけのことがまだ不満らしい。腕を拘束したまま、黄瀬が腕の付け根に顔を落としてくる。 「っきせくん、それ……っ、」 いやだ、と腕を引こうとしても動くわけはなく、いくら身を捩っても黄瀬の身体に覆いかぶされていてはろくに動けない。肩に黄瀬の髪が触れ、次いで脇のくぼみに唇が触れた。 「ぁ…………や、だ……」 ふわり、ふわりと唇が降る。自分でも分からないがそこに触れられるのがどうしようもなく恥ずかしいのだ。もっと抵抗のある場所もあるけれど、そちらは触れないとどうにもならないから頑張って堪えているだけで、脇なんて何もしなくていいはずだ。気持ちがいいのかくすぐったいのかも分からない。黄瀬の唇がそこに触れているというだけで、何かの許容量が越えてしまう。やだ、きせくん、やだ、と小声で繰り返すとようやく彼は顔を上げた。 「……まだ恥ずかしい?」 分かっていてやったくせにと睨めば、真っ赤、と頬を撫でられた。 黄瀬と何も纏わず抱き合うようになり、初めてそこに口付けられたとき、黒子は本当に飛び上がりかけた。あの頃は何をするにも動揺して、いちいち時間をかけさせていたけれど、中でもあの驚きは飛び抜けていた。黄瀬も黒子の免疫のなさと感覚の違いを優先してくれて、最初はあえて羞恥心を煽ることはしなかったのに。それが今では。 「黒子っち恥ずかしがってんの、かわいいんスよね」 そんな風に言って、また顔を埋めようとする。 「っ、きせくん」 もうやだ、と声に滲ませて呼べば、動きが止まる。こちらを見下ろす顔は、少し意地が悪い。 「もう他のこと考えない?」 「……ません」 「ならいいっスよ」 ほ、と息を吐いたが両手はまだ上で留められたままだ。これを放してほしい、と目で訴えたが聞くつもりはないらしい。二の腕の内側を強く吸われ、小さな痛みが走る。そのまま肌を伝って肘、手首、と唇を滑らせて、頭上の手のひらへ。刺激は強くなくても鼓動は速いままだ。ただの、面白みのない腕一本にだって、黄瀬は唇と指と手のひらとで隈無く触れてくる。頬が触れることもある。気が済むまで何度も繰り返す。執着が強すぎていっそ無心にさえ見える。 黒子はそういう黄瀬の行為をただ受け入れ、見ているだけだ。それなのに自分の性器はそれだけで張り詰めてしまうから、決して無心ではないのだろう。肩から指先まで、黄瀬に触れられた感触のない場所はない。 「……いい感じにとろとろっスね」 吸われていた指先を解放された頃には、言葉通り身体の芯という芯が抜け落ちたようだった。しかしそれは、ある一点を除いてのことだけれど。 「っ、あ……きせ、くん」 するりと下半身に伸びた手に性器を掴まれ、先端のぬめりを広げられて目を瞑った。 「いっぱいこぼれてる」 気持ち良かった? と嬉しげに言われてもどう返したらいいのか分からない。そこに触れらるとすぐに達してしまいそうで、実際いつもそうなってしまうのが黒子の秘かな悩みだった。だって黄瀬はそんなにすぐには達しない。 「いきそう?」 聞かれ、首を振って否定した。今までより少しでも我慢したい。それなのに。 「ふうん?」 「あっ」 手に力を込められ、途切れ途切れの声が止まらない。唇をぎゅっと結んで、かけ上ってくるものに堪える。どうしたの、と黄瀬が楽しげに言うのが聞こえ、唸りながら真上の顔を睨む。 「我慢したいの?黒子っち」 そう、我慢をしたいのだ。だから手を緩めてほしい。目で訴えると、は、と黄瀬が興奮気味の息を吐く。 「……そんな顔見てたらもっとしたくなる」 ぬめりを広げるように先端を撫でられ、堪えきれなかったものが新たに溢れた。滑りのよくなった手がますます動きを速くする。きつく噛んだ唇に黄瀬のそれが触れ、さっきとは違う優しい声で言われた。 「口、それ以上はだめっスよ。声が嫌なら塞いであげるから」 「……ちが、」 「違わない。――開けて」 「っ…………ん、ぅ、」 唇を舐めらると反射的に開いてしまう。すかさず舌がするりと滑り込んできた。噛んでいた下唇を確かめるように舐め、一通り口の中をかき回すと、舌を絡ませながら唇を強く押しつけてくる。粘膜が擦れ合い、息もできない激しさで貪られ、下半身を追いたてられたらとても我慢なんてできない。 「――……っ!」 大きく背を反らしたはずみで唇は離れた。息を吸い込み、吐けばあとは落ち着くはずだった。けれど、余韻がいつもより長くて身体がもどかしく揺れる。 「は、っ、ぁ……あ……っ」 額に張りついた前髪を払ってくれる指先さえ追ってしまいそうだった。黄瀬はそんな自分を満足そうに見つめながら、甘やかすような声で言う。 「まだ我慢は早いっスよ。……気持ちいいの強かったでしょ?」 早いとは、未熟者ということだ。けれど仕方ない。事実まだ黄瀬についていくだけで精一杯なのだから。しかし、どうして我慢をすると気持ちのいいのが強いのだろう。 ぼんやり考えながら息を整える方に集中しようとすると、ゆっくりでいいよ、と黄瀬が背から下へ指を辿らせた。緩く回った腕に、ふ、と身体の力が抜ける。直に触れる肌は布越しよりもずっと熱く、嫌が応にも今していることを意識させるけれど、やはり黒子にはこれが悪いことだとは思えない。こんな風に触れてくれる手が悪いもののわけがない。指先だけはくるくると背や腰を回って、黒子の意識を散らしていくのだけれど――。 「っ」 つぷりと、いつの間にそこに辿り着いていたのか、後ろに指を埋められた。黒子が放ったものを周囲に塗り込みながら、ほぐすように広げられていく。入った指に中を圧されるたび、ひくん、と背が震える。 「これでもまだ、我慢してたんスけど」 指はぬめりを広げては掬い、狭い中を開き、奥へと沈みこもうとする。最初は痛かったはずなのに、もう身体はそれを忘れてしまったらしい。違和感も圧迫感も間違いなく感じているのに、痛みではない別のものに結びついてしまう。 「そんな顔見せられちゃったら無理っスわ」 自分の身体を支えながら、耳元で黄瀬が囁く。黒子は声もなく、ただ背をしならせてそれを迎え入れるだけだ。先ほどの強い快感も抜けきっていないから、すぐに熱は引き上がる。少し指が進んだのを感じ、僅かに苦しくなって教わった通りに息を吐く。息を吐くと、力を抜きやすい。そうすると、黒子も黄瀬も気持ちがいいのだ。黒子がきついと黄瀬もきつい。そういうことらしい。 「……ね、黒子っち」 返事の代わりに、弱く黄瀬の腕を指先で掻く。彼は何かをほのめかす声で、言った。 「覚えてる?」 「…………っ」 く、と中で指を曲げられ、全身が熱くなった。その問いに答えることが一番恥ずかしい。けれど、黒子を欲しいという男は、子供のような無邪気さと我儘さで、すべてをちょうだいとねだる。身体も思考も心も、羞恥心もぜんぶ。 『逃げないで、一緒に気持ち良くなって』 初めて触れ、黄瀬のすることについていくのがやっとの黒子に、黄瀬は言った。 黄瀬に触れること自体、黒子に抵抗はなかった。だから行為自体を嫌だとは思わなかった。けれど、これは悪いことではなく、好きでいる者同士なら当たり前の行為であると頭で何度言い聞かせても、快楽を素直に受け止めることだけは難しかった。ましてそれを黄瀬に見せるなど、できれば最も避けたい。今だってそう思う。しかし腹を括った。地上にいるのだから地上の習慣に合わせる。きっと慣れの問題だ。 だからそう決めて、好きなようにしてくださいと言ったのに、だめ、と即座に却下された。旅の最中、黄瀬が黒子に、だめ、と言うのと似ていた。 『オレにどうされたらどう感じるのか分かってて。目瞑って我慢してるうちに終わった、なんてオレは嫌っスよ。アンタがちゃんと、オレのすることが気持ちいいって思ってくんなきゃ、意味がない』 『我慢してるわけじゃ』 ない、と言い終える前に、むっすりした顔の黄瀬にじっと睨まれた。 『天宮からここに戻ってくるまで、アンタオレに合わせて何回ぜーぜー言ってたか覚えてないんスか。黒子っちのは自覚ないだけ』 オレこの話百回ぐらいしたけど、とさらに彼は付け足した。いくらなんでも百回はされていない。十回くらいだ。でも言い返したら黄瀬が一つずつ指折り数え出しそうなので黒子は黙った。 確かに黄瀬の言う通りなのだろう。けれど、黒子には黄瀬が初めての地上の人間だったのだ。歩く速さや習慣や、基準は分からないけれど、とりあえず黄瀬に合わせるべきだと思った。 だから多少は無理をしたけれど、我慢ではない。今だってそうだ。でも黄瀬はそれでは納得しないらしい。 『黒子っちは、こういうことすんの嫌?』 『……嫌じゃないです』 『オレにさわられるのは?』 ひた、と黄瀬の手が黒子の頬に触れた。同じ行為でも、服を着ていないだけでどこか緊張はするけれど、嫌だとは思わない。嫌なわけがない。 ぴたりとひっついて、抱き締められていなければ移動もできない旅だった。それだけじゃない。星空の下、隣同士で眠ったり、手を引かれて沢を渡ったり。口移しで水を飲ませてもらったときだって、熱で朦朧としていたから受け入れたわけじゃない。唇を合わせて、隙間なく身体を抱きしめられて、泣きそうなほどに安心したのだ。 一緒に過ごした時間の長さと、触れた数は比例している。増えるほど黄瀬に心を開いていった。そうして、好きになった。気持ちがいいとか悪いとか、そんな次元じゃない。 『キミに触られるのは…………うれしい、です』 『…………』 黒子の答えに黄瀬は目を見開いて、それから見惚れるほどに破顔した。これからする行為とはとても結びつかない、純粋で輝くような笑顔だった。 『じゃあ、いっぱい嬉しくなって』 抱きしめられて、それはやはり心地良くて、これをたくさんしていいんだ、とそのとき分かった。黒子がこの行為に一歩近づいたのは、そこからだった。 >> 続 |