迷い子二人  [ 1 ]

「ねえ黒ちん、したい」

 頭上から降ってきた声を締め出したい気持ちで、ロッカーの扉をばたんと閉める。練習が終わればいつもはさっさと姿を消す紫原が珍しく部室でだらだらしていると思ったら、そういうことだったらしい。
「ボクはしたくありません」
「まいう棒あげても?」
「そうです」
 こういうときに目を合わせてはいけない。百円でお釣りがくるお菓子と引き換えに何をしようとしているのか、なんて突っ込みもしてはいけない。三十六計逃げるに如かずなのだ。スポーツバッグを素早く肩にかけ、くるりと背を向ける。

「鍵そこにあるんで。ちゃんと締めて出てくださいね」
 じゃ、と言ったら後ろから腕を捕まれた。

 どうして普段、コンビニでお菓子を選ぶときぐらいしか自ら何かに手を伸ばそうとしない人間が、そんな簡単に自分を引き止めたりできるんだろう、と黒子は嘆息する。触れている手の平の大きさと腕の長さは見なくても分かる。サイズの違いはこんなときまで容赦ない。

 振り返って見上げれば、彼はちゃんと黒子の顔が見えるように顎を引いて、細長く大きな瞳で目を合わせてきた。ろくに感情も浮かんでいないので、下手をしたらつぶらな瞳のようにも見えてしまう。
 断られて不満気な表情でもしてくれた方がまだいいと思うのだが、彼が一般的な顔色の変化を見せてくれたことなどほとんどない。

「ボクもうくたくたなんです」
「あー、マジメに練習してたもんねえ」
 今日に限って自主練の量を増やした自分を呪いたくなった。レギュラー以外の部員はもちろん、いつもは一緒に帰ろうと待機している黄瀬も、何とはなしにタイミングが合う青峰も帰っており、もう部室には二人しかいない。
 窓の外の景色は完全に夜で、校庭の木の上に月がぽこりと顔を出していた。
(あれが上りきる前に帰りたいです)
 せめて。と付け足す。
 もう逃げられないのは分かっているが、大人しく言うことを聞いてやったのでは自分の溜飲が下がらない。本当なら帰ってすぐ寝たいくらいだというのに。

「じゃあ黒ちん、していい?」
 じゃあって何ですか、なんてやり取りも意味がないことが分かりすぎていて、最近では省くようになってしまった。
「だめと言ってもするんでしょう」
「んー、なるべくしない。黒ちん怒るし」
「当たり前です」
「ボタンてめんどくさいよねえ」
 会話なんてあってないようなものだ。めんどくさい、と言いながら紫原は大きな身体を屈めて、自分のシャツのボタンを外していく。だったら着替え終わるのを待ってなければいいのに。なんて、まるで初めから合意のような台詞が頭に浮かんで、自分でげんなりした。





 ◇


 数ヶ月前のことだ。黒子がシックスマンとしてユニフォームをもらってから半年ほど経った頃だった。

「ヒネリつぶしたらダメなんだって」
 顔を下げることすら億劫だと言わんばかりに、目線だけを見下すように黒子へ向けた紫原はそう言った。
「ヒネリつぶしたいんですか、ボクを」
「うん」
 その日、紫原の機嫌は誰がどう見ても最高潮に悪かった。その長身と腕力で上からボールを叩きつけられたゴールなんて壊れる寸前だったし、ブロックされた部員など多分殺意を感じただろう。とにかく、何も言わなかったが怒りに怒っていた。
 バスケなんか好きじゃないと言うけれど、普段の彼のバスケはそこまでひどくない。確かに楽しそうではない。だけど彼の身体は勝つ術を本能的に把握していて、勝ちを獰猛に求める姿は恐ろしい迫力と、迷いのない美があった。

 ヒネリつぶしたい、と言われて多少なりとは傷ついた。
 最初こそ自分への苛立ちを感じていたものの、その頃にはチームメイトとしての関係が出来上がってきていたからだ。少なくとも黒子はそう感じていた。ジャンル違いとはいえ双方甘党で、他人に干渉しないスタンスはちょうどいい距離感だった。居心地がいい、と思うことだってあった。

「黒ちん見てるとイライラする」
「……そうですか」
「でも赤ちんが、黒ちんつぶしたらダメだって言うし」
 紫原の手が伸びてきて、五本の指が首に触れた。動きはひどく緩やかだったし、まさかそれは、と思ったものの危険を感じないわけはなかった。自然と、身体が強張った。
「あとオレ、黒ちん好きだし」
「……………………」
 今にも殺されそうな雰囲気の上、発言に表情がまったく伴っていない。大体において紫原という人間は何を考えているのか分からないのだから、真意はまったく掴めなかった。
「わけ分かんないよね、黒ちんて」
「……それはボクの台詞ですが」
 黒子は紫原をまっすぐ見上げていたが、紫原は黒子の首元に目線を落として、どこか違うところを見ているようだった。蛍光灯に近い髪はすぐ上から青白い光に照らされいて、濃い色の影を頬に落としていた。
 不思議と沈黙は長く感じられず、お互い黙ったままでいると、紫原の瞳にいくらかの色が戻ってきた。それでもまだ、表面に氷が張ったような印象は拭えなかったが。

「黒ちんが分かったら分かるかなあ」

「……………紫原君?」

 そうして、意味の分からないことを呟いた紫原に、そのまま無理矢理された。抵抗なんて無に等しかった。
 黒子はそんなことをされながらも、ショックよりは疑問の渦の方に大いに巻き込まれていた。考えることすら面倒くさいと手放す紫原が、何かを分かりたいと思っているらしい。それが何なのか気になって、頭から離れなかった。でもそれも最後には、痛みと吐き気にかき消された。
 ひどい行為をひどいとも思わずやってのけた本人は、黒子の腰に抱きついたまま眠ってしまった。







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