ほどいて ほどいて  [ 1 ]

 駅前のゴミ箱に、飲み終わったシェイクのカップを捨てた。斜め前の本屋に入って、文庫の棚を端から端まで眺める。手に取って開いてみる。文字が頭に入ってこなくて、元に戻す。実用書の横は素通りする。文芸書も帯の文がやたらと派手なのでつい敬遠してしまう。自動ドアをくぐると、夏の蒸した空気に身体が包まれた。

 黒子がもう一度駅前に辿りついたときには、夜も十時を回っていた。手にはマジバーガーのシェイクが握られている。半分ほど飲んだが、次の一口が進まない。今日三杯目なのだからそれもそうだ。でもこれ以外注文するものが見つからなかったんだから仕方ない。部活帰りで疲れているのに、本屋とハンバーガー屋を往復してまだウロウロしているなんてどうかしている。そう思いながら、閉まったパン屋のベンチに腰を降ろした。


 桐皇との試合が、こんなに重く響くと思っていなかった。自分でも驚く。
 勝つと約束したこと、誓ったこと、それを守れなかったこと。青峰との再会。目の当たりにした彼のセンスは前よりも格段に上がっていた。貫いた意地は勝利に結びつかなかった。火神の言葉。
 自分は、彼らのようなバスケのためのセンスや体格は持ち合わせなかったけれど、諦めないことだけは。気持ちだけは負けないつもりでいた。でも、それでは勝てなかった。そんなことはとっくに、中学の頃紫原が言っていた。よく覚えている。それに反発した覚えはない。ただ、それだけじゃないと思っていた。それだけじゃない、という想いの方が強かった。揺らがないよう、極力考えないようにしたけれど、油断するとふらりと倒れそうになる。努力も練習も、才能あってこそなのかと。

 火神の言葉が堪えているのだ。負けたことと同じかそれ以上に。
 そんなことはないと証明できないことが悔しかった。自分がバスケに戻った意味があの試合で否定された気がした。ここでも?と頭の中で誰かが言う。

 どこに行ったらいいんだろう。

 梅雨が明けたのにまだ蒸すから、星がほとんど見えない。


 すっかり溶けたシェイクを、惜しみつつも捨てようと立ち上がると、携帯が鳴った。
「…………」
 いつもなら何の抵抗もなく出るけれど、今はあまり話したくなかった。なのに、ためらっているうち指の方が勝手に通話ボタンを押していた。習慣は恐ろしい。

「はい」
「久しぶりっス黒子っち」
「そんなに久しぶりでもありませんが」
 決勝前に会っているから、二週間かそこらだろう。黄瀬のペースでいけば、久しぶりかもしれないが。
「黒子っちの声聞きたくなったんス」
「そうですか」
「あの、さ」
「はい」
「明日そっち行っていースか」

(イヤです)
 大体が人に会う気分じゃない。それもよりによって黄瀬だ。この歯切れの悪さは試合結果を知っているからだろう。とにかく今は会いたくない。

「明日は用事があります」
「えと、黒子っち……」
 ふう、と聞こえないように溜息をついた。まどろっこしくてしょうがない。
「ボクは平気ですよ黄瀬君」
「……そスか」
 黄瀬の用件など見え見えだ。しかし、続いた言葉に瞬間、押し黙る。
「火神っちは?足平気なんスか」
「…………」
 毎日目の前に現れる背中が思い浮かんだ。
 足は、二週間の安静で問題ないらしい。部活はその間休むらしい。キャプテンにそう伝えたというのだから、そうなんだろう。

「黒子っち?」
「……平気だそうです」
 随分冷たい声になったな、と自分でも思った。怒っているわけでもないのに。
「え、本当はあんま良くねーんスか」
「いえ、見た感じ普通に歩いてますし。大丈夫なんじゃないですか」
「…………」
 こんなだっただろうか、と黄瀬に聞かれて初めて思う。毎日前と後ろの席に座って、何を話していたのかも覚えていないけれど、確かに話はしていたのに。今までどうやって火神と会話をしていたのか、忘れてしまった。

 ガコン、とゴミ箱にシェイクのカップを落とした。いやに重く感じたそれは、金属の箱の中でも重い音を立てた。

「……黒子っち、今、外スか?」
「え?」
 突然話題が変わって戸惑う。あ、今のゴミ箱の音でか、と気付く。辺りに気を配れば、ちょうど線路の上を電車が通りすぎようとしていた。
「いつもの駅んとこ?」
「?はい」
「そこ居て」
「黄瀬君?」
「二十分で行くっス」
「あの、何言って」
「絶対待ってて。着いて黒子っちいなかったらオレ身投げするっス」
「はあ?」
「いてね。黒子っち」
「ちょ」
 プツ、と電話が切れた。話しながら、黄瀬がもう動き回っているのが分かった。
 握り締めた携帯を、呆然と見ていた。
 ディスプレイの照明が暗くなるまで。





「いた!黒子っち!」
 改札から飛び出るようにして走ってきた黄瀬は、黒子を見つけ、目の前までくると両膝に手をついて、はーっと長いため息を吐いた。
「……そりゃあいますよ、あんなこと言われたら」
 ごめんごめん、と黄瀬は笑った。電話口での強引さが嘘のように思える、いつもと変わらないテンション。
「黒子っち、帰んないんスか?」
「帰りますよ。というか、帰るとこでした」
「じゃー帰ろ」
「キミは何しに来たんですか」
「ん、黒子っちの家、泊まりに」
 ごく当たり前のように言う黄瀬を睨みつける。
「……何のつもりですか」
 心配ならいりません、と言外に匂わせたが、黄瀬は構わず一度瞬きをして、頬に目線をずらした。少ししてまた瞬いて、今度は首元へ。最後に、黒子の怒る目の中へすっと視線を滑り込ませた。
「……黒子っちのこと、心配してきたんじゃないっスよ」
 睨み続けられている黄瀬は、さすがに片方の眉を下げて苦笑した。黒子をむやみに心配すれば機嫌を損ねる。中学の頃に経験済みだ。
「心配、してないわけじゃないっス。けど今来たのは心配だったからじゃなくて」
「……」
「怖かったんス。そんだけ」
 あっさりと言った。何がとも誰がとも言わず。
「怖い?」
「うん」
 だから泊めて、と繰り返された。

 黒子は嘆息した。さっきの電話からずっと黄瀬はお願いの形を取っているけれど、どうも自分に拒否権がない。ここで待ってしまった時点で負けていたのか、と思う。会ってしまえばなおさらだ。 

 駅前の時計を見上げる。いつまでもここにいたって仕方ない。帰る頃には十一時だろう。
 視線を戻すと、黄瀬が手を差し出していた。ここへきてさらに手を繋ごうということらしい。ぺしんとそれを叩いて先に歩き始める。数歩で追いついた黄瀬が横に並んだ。

「黒子っち、コンビニ寄ってっていい?オレ何も持ってきてないんス」
「置いていきます」
「ひどいっスー」

(手ぶらで来るからです)
 くしとか、愛用のムースとか、携帯の充電器とか、下手したらドライヤーとか。黄瀬はいつも色々なものを持ち歩いている。常時手ぶらの青峰に、女みてー、とよく言われていた。

 財布と携帯だけで現れた黄瀬に黒子が甘くなったのも、仕方ないのだ。











>> 続