独占したいの [ 2 ]
 
 バレンタイン当日は、朝から雪だった。
 それも何十年に一度の大雪とかで、午後から大雪との予報を見ており、それを想定していた黒子もちょっと唖然とするような猛吹雪だった。窓の外では上から下から、右に左にと雪が乱れ飛んでいる。教室に漂っていたバレンタインのそわそわした空気は、雪に取って変わられたようだった。
 机に頬杖をついて雪を眺めていた黒子の気持ちはしかし、まだチョコレートに向いている。
(これは……どうしたら)
 交通網も乱れるだろうということで授業も早く終わり、当然ながら部活も休みとなった。カントクからは、寄り道すんじゃないわよ!というメールが一斉送信で送られてきている。
 今のところ、黄瀬から特に連絡はない。東京でこの荒れ様なのだから、神奈川だって相当に降っていそうなものだが、案外大したことはないのかもしれない。しかし黄瀬の場合は結構な雨でも、すごい雨っスねー!と言って誠凛に来るのだから、気にしていないだけ、という可能性もある。

 黒子は改めて携帯を手に取った。
 『すごい雪なので、今日はなしにしましょう。』
 頭は簡単にその文章を作った。でも指はメールの作成すら操作しようとしない。

 今日の約束は、黒子にとってそんなに嬉しいものではない。
 黄瀬の好きな誰かの代わりにチョコを渡すのだ。口実をつけて渡せればいいとか、告白なんかしなくていいとか思っていたくせに、いざとなると面白くない。自分も存外未練がましい。

 黄瀬に好きな人がいる。そのことはいい。
 しかしだ。
(黄瀬君の一番格好いいところを知っているのはボクです)
 うっとり惚けるような意味でなく、ビリビリと震えが走るような、怖さにも近いけれど、腹の底から歓喜が湧くような。
 それは同じコートで対戦したから肌を通して分かることで、今までの中で最も強い黄瀬と対戦した自分だから、”一番”と言えるのだ。何だかんだで黄瀬の実力を認めているのがキセキや火神だけれど。
(ボクが一番、です)
 とにかくそこは譲れない。もしかしたら男だとか女だとかは関係ないのかもしれない。
 だから、一番かどうかは置いておくとしても、彼のあの姿を知っている誰かなら――例えば桃井や他のバスケ関係の誰かなら、黒子は静かに身を引いたかもしれない。自分の価値観でものを言っているのは分かっているが、どうしたってあれ以上黄瀬が良く見えるところはないのだ。あの良さを本当に分かっている誰かでなければ納得できない。
 それに、あの全開の笑顔を、警戒心のないふにゃりとした顔を、その知らない誰かに向けるのだって納得できない。
(……あれは、ああいう顔は)
 そこまで考えて、黒子は机の上に突っ伏した。
 自分はどうやら未練がましくて往生際が悪くて、さらに、こんなにも独占欲があるのらしい。話によく聞く、一人娘の父親みたいな気分だ。
 だから、困る。
 自分の望みだけを押し通すこともできない。自分の娘――この場合黄瀬が――幸せなのが一番だと、やっぱり思っている。

『もらえないの、分かっちゃったんス』

 どう見ても下手な作り笑いだった。でも、何か思いやるような笑い方でもあった。
 黄瀬はその人からのチョコが欲しいのだ。彼にそんな顔をさせるような、その誰かの。

 黒子は腹を決めて立ち上がった。
 雪なら、何とかなる。黄瀬の家にさえ着けば、最悪帰れなくなっても泊めてくれるだろう。



 校舎を出た途端、映画か何かの演出かと思うほど雪は吹き付けてきたが、三十分の電車遅延と、車内が多少込み合った程度で黄瀬の家の最寄り駅に到着した。
 前もって言っていた通り、一駅前で黄瀬にはメールをした。返信のないのが気になるが、まだ帰っていないのならコンビニにでも寄っていればいいか、と黒子は改札を出た。
 ここもすごい風と雪で、駅に到着する人のほとんどのコートが雪で白くなっている。傘をさしても雪が入ってくるし、腰から下はノーガード同然なのだ。その上学校を出たときよりひどいことに、道路には足首の高さまで雪が積もっていた。
(……これは、黄瀬君の家までが冒険になりますね)
 待っているうちにどんどん雪はひどくなりそうで、もう行って待ってようかな、と思ったとき、ひときわ真っ白く雪に覆われた人が現れた。頭から雪をかぶり、手に持っている傘を何故ささなかったのか、畳まれた状態で雪が積もっている。近付いてくるその雪男は確認するまでもなく――黄瀬だった。

「……馬鹿ですか?」
「っ、はなが、冷たいっス……」

 うう、と手の甲で顔の雪を払っているが、その手も赤い。手袋をしてたって手が冷たくなるのに、コート一枚羽織っただけで、手袋もマフラーもしないで出てくるとは何事だ。
 部活で使う予定だったタオルを出し、二号を拭く要領で黄瀬の頭と顔を拭く。見た目は悲惨だが髪が濡れるほどではなく、雪は払えば落ちる程度だった。黒子はほっと息を吐き、タオルに顔を埋めている黄瀬に低い声をかける。
「黄瀬君」
「……黒子っちの匂いがする」
「ふざけてると蹴りますよ。何でそんな格好で来たんですか」
「……急いでたから」
「元々直接行くって言ってたでしょう。わざわざ来なくても」
 黄瀬はタオルから顔を離し、まだ赤い鼻と頬を晒して、黒子をまっすぐ見つめた。寒さからか、目がいくらか潤んでいる。彼の方が、雪をかきわけてやってきた探検隊のようだ。白い息は、緩やかに弧を描く唇からふわりと上がる。
「黒子っち、来ないと思ったんスよ。でね、ふて寝してたんス」
「……約束してたでしょう」
「うん、でもすごい雪だし。今日はやめましょうって、いつメール来るかと思って、でも」
 風が吹いて雪が入ってくる。黒子のマフラーに降りた雪を、黄瀬の指が取り去った。黒子の拭き方とは違う、指にすら残らない雪の結晶も壊さない動きで。
「来てくれたっス」
 へへ、と黄瀬は笑ってまたタオルに顔を半分埋める。

(……これだから)
 またひとひら、新たに積もる雪を、金色の髪からぱさぱさと払う。そうしながら、黒子は奥歯を噛みしめた。

 こんな顔を見て、好きにならないわけが、ない。

 すう、と息を吸い込んで冷たい空気を肺の中に入れた。熱い息を外に逃がしてから、黒子は言う。
「行きましょう。これ以上ここにいたら風邪引きます」
「うん」
 言ったそばから黄瀬がくしゃみをし、問答無用で黒子のマフラーを巻かせ、今度はしっかり傘をさして黄瀬の家へ向かう。
 黒子は少しも寒くなれない。
 黄瀬の視線を受けたときから、心臓も喉の奥も、熱い何かが巡り続けている。



 家に着き、濡れた靴下を脱いだら、黄瀬も黒子も足が赤くなっていた。まずはヒーターに裸足の足をかざし、一通り温めてから黄瀬の部屋で寝転がる。黒子はクッションに、黄瀬はベッドにもたれて。
「疲れたっスね〜」
「ほんとです……」
 風の中を歩くだけでも大変なのに、傘は煽られるわ、雪に足は取られるわで、普段の倍以上の労力だ。後半、黒子が足を滑らせる度に息を呑んでいた黄瀬に手を繋いで歩かれて、その点も大変不本意であった。滑るだけで転びはしないというのに。
 仰向けになってぼんやりと天井を眺める。身体に力をいれないで、のびのびと手足を伸ばせるというのはいいことだ。しかも温かいから、眠くなりそうだ。黄瀬も眠そうな声で話しかけてくる。
「黒子っちー、寝っ転がるならベッドでいいっスよ。床痛いでしょ」
「そんなことしたら寝そうなんで……」
 チョコも何も全て忘れて朝を迎えそうだ。
「んー……、でも」
 のそりと身を起こしたらしい黄瀬が、顔を覗き込んできた。床に片手をついて、人の顔を見ながら考え事のようだ。雪をかぶった髪はいつも通りに戻って、温かみのある金色がさらりと流れている。
 黒子は何も考えず、それに手を伸ばしていた。
「っ」
 ぱちんと、目の前で風船が割れたように黄瀬は驚き、慌てて身体を起こした。
「あ、すいません」
「や、全然!ぜんぜんっス!」
「そんな全力で否定しなくてもいいですけど」
「だって黒子っちに触られてヤなわけないっスから!」
「……あのですね」
 黄瀬があまり驚くので黒子も目が覚めてきた。ここらで一つ、釘を刺しておいた方がいい。

「キミ、好きな人がいるんでしょう。その人とどうなるかは分からないですけど、あんまりそういうこと言わない方がいいと思います」
 黒子の精神衛生上も良くない。どうしてこれで自分は片想いなのかと、そのうち逆ギレする。
 だというのに、黄瀬は不服そうな顔で訴える。
「……黒子っちはいいんス」
「だからそれが良くないと」
「でもそれくらい……言いたい」
「はあ」
 かろうじて聞き取れる声で言い、不自然に黙ってしまった黄瀬は苦しそうに目を歪めた。何かを口にしないように抑えこんで、でも言いたくて、全部は言えないけれど分かってほしいのだと、子供みたいにせがむ顔だ。
 そういう姿を見られることが、優越感でなく、黒子は純粋に嬉しい。黄瀬が心を許した相手にだけ見せる、情けなくて格好悪い姿。好きな人がいると、黒子にそれとなく告げたときもそうだった。
「よく、分からないですけど」
「……」
「キミは本当に、その人が好きなんですね」
 黄瀬君が真人間になって良かった。そう喜ぶ心で、微かに痛む心の一部に蓋をする。

「けど……伝わっても、だめなんスよね」
「?」
 体育座りになった黄瀬は目を伏せ、両足を抱きながら呟いた。
「……また、オレじゃないとこ行っちゃう」
「『また』?」
 聞き返すと、黄瀬は雰囲気を一変させ、あわあわと手を振った。また話しすぎたらしい。
「こんな話されても困るっスね!大丈夫、オレ諦めないし!」
「諦めないんですか」
「だって好きなんスもん」

 迷いなく答える言葉に、揺らぎはなく見えた。強がりでも、好きだと言うときの黄瀬はそれで胸を満たしていて、黒子の気持ちの入る隙間などないようだった。見事に清々しい、失恋確定だった。

「黄瀬君て、変わりましたよね」
 黒子は自然な動作で、スポーツバッグに手を伸ばした。ファスナーを開け、中を探りながら、黄瀬に話しかける。
「そスか?」
「格好悪いところが増えてくれて、嬉しいです」
「……いじわる」
 この前も言われたな、と黒子は小さく笑った。そうですね、と返す。
「好きな子はいじめたくなるタイプだったみたいです」

 黄瀬の気配が変わったのが、背を向けていても分かった。黒子はそれを受け止め、目当てのチョコをかばんの奥底から取り出す。棒の先をつまみ、黄瀬の前に置いた。手のひらより小さいそのチョコは、床に直接置くとさらに小さく見えた。

「キミが好きです」

「…………」

 チョコを見つめながら、黒子は言った。四角くて、妙に安定感があって、床に置いても揺れないその形は、今の自分に合っていた。黄瀬を喜ばせてあげられないことだけが、唯一残念なのだけれど。
 チョコと自分を交互に見て、話が掴めず、いや、本当は分かっているだろうけれど突っ込んでこない黄瀬に、続けて言う。

「ボクからのチョコになってしまってすみません。キミの好きな人の代わりをする気で来たんですけど」
 でも、代わりはできないし、それに、きっといらない。
 中途半端に姿勢を崩し、こちらを見ている黄瀬は言葉もないらしい。まあそうだろうな、と思う。
「……駅の売り場でキミに見つかった日、キミにあげるチョコを買おうとしてたんです」
「――……え?」
「それで焦って……、あのときはまだキミに言うつもりはなかったので、それでこんなことに」
 すいません、ともう一度謝る。
 黄瀬の顔は、まだ見られなかった。振られることが分かっていても、直視するにはもう少し勇気を溜める必要があった。
 窓ガラスが、雪と風にぶつかられて音を立てる。聞いているだけで寒くなる音だ。
 それを――、

「……黒子っち、オレに、くれようとしてたんスか?最初から?」

 ぽつりとした、黄瀬の声が遮った。

「……はい」
 言ってから、後悔がじんわり押し寄せてきた。男同士だし、普段の自分の態度を考えれば、さすがの黄瀬も戸惑うだろう。
(帰った方がいいかな……)
 横目で窓の外を見ると、先ほどよりも激しい雪だった。電車もバスも動いているか怪しいが、とてもとても居たたまれない。
 一分にも満たない沈黙が重くて黒子が立ち上がろうとすると、きらりと光るものがチョコの上から降ってきた。雪、のはずはなかった。
 薄く唇を開いた黄瀬の目から、ほろほろと涙が落ちている。
「……え?あの、……黄瀬君?」
「悩んで、くれてたのも、……オレの、こと?」
「え、あ、はい」
 まさか泣かれると思っていなかった黒子は、素で焦った。泣かれたことも、その泣きっぷりにも焦った。すぐさま替えのシャツを掴んだ辺り、水を零したときと同じ焦り方だった。その黒子の制服の裾を、黄瀬がきゅうと掴む。何か言ったらしいが、聞き取れない。
「……と……?」
「え?」
「……ぜんぶ、ほんと?くろこっち」
「はい」
 そういう頼りない声で呼ばないでほしい。どうしていいか分からずシャツを掴んだ体勢で固まっていると、黄瀬は床に置いたチョコを手のひらにちょこんと立て、またぼろぼろと泣き始めた。

「……もらえた……」

 ぎゅう、とそれを手に包み、また開き、チョコの存在を何度も確かめている。
「黒子っちからもらえた……」

 黄瀬のシャツに、絨毯に、涙がどんどん降り注ぐ。びしょ濡れの顔があんまりなので、黒子は手にしたシャツを黄瀬の顔に押し当てた。
 ぱちり、と瞬きをした黄瀬が、濡れた目で自分を見る。
「くろこっち」
「……」

 会うたびに回数を増す。見れば見るほどに、思う。
 これを見て、好きにならないわけがない。
 その顔はつまり――。

「っ、うわ」
 事態を必死に整理しているところで、勢い良く抱きつかれた。支えきれず床に倒れこむ。頭や背中を黄瀬の腕でガードされていたって、衝撃がないことはないのだ。
(だからいつも勢いを考えろと……!)
 反射で叱りつけようと口を開いたが、それより黄瀬が声を上げる方が早かった。

「諦めないで良かったああああ」

(…………叱りそびれた……)

 黒子は心で嘆きながら、黄瀬の頭をぽんぽんと叩く。はいはい良かったですね、と言えば、良かったー、と返ってくる。黒子っちがオレのこと好きだってー、と、それ今自分が言ったことだから分かってます、ということまで報告してくる。
 叱りそびれたし感動しそびれたけれど、両想いだったことは分かった。
 黄瀬が泣きながら語る片想い中の話が本当に情けなくて、黒子も一緒になって情けなくなるのだが、満足していたりもする。

 一番情けない姿も、一番格好いい姿も。
 緩い笑顔も、全身で抱きついてくるのも、これからも自分が。

 それでいいのだと分かったら、黒子の目にも少しだけ涙が浮かんだ。






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