そんなものは霊より見えない |
「あ〜〜へこむ」 「オイその缶を巻き込むな。へこむのはお前だけにしろ」 「これくらいじゃへこまねえ」 「デコの下見やがれ。へこんでるだろ俺様のビールが」 「俺はへこんでる」 「そりゃ分かってるってんだよ……」 レモンサワーを二口飲んだだけで突っ伏している男は、本日三度目の台詞を口にした。額の下には未開封の缶ビールを敷き、引き抜こうとしても握りしめて放さない。万一ビールが噴き出したら被害はこの男一人では済まないし、そもそも何故俺様のビールを枕にするのか。温めるなら自分のサワーにしろと言いたい。膝元には今日は飲むと気張って買った柑橘系サワーがごろごろ転がっているのだ。 「ちくしょう腰もやりゃ良かった……」 「肩って話だったろ。あれでいいじゃねえか」 今日相談所を訪れた客は、最近妙に肩が重いのだと霊幻に訴えた。霊障など自分でも半信半疑だが、ふんわりしたものが乗っている重さだという。ふんわりしてるくらいなら乗せたままでもいいじゃねーかと宙で聞いていた自分は思ったが、霊幻は水を得た魚のごとくいきいきと、最近は霊もふわついてますからともっともらしく説明し、お得意のマッサージを始めた。 結論を言えば、本物の霊障被害ではなかった。ごく一般的な肩こりで、霊幻の施術と焚いたアロマにより気分も回復し、おそらく途中で、霊の仕業などではないと自ら気付いた。目が覚めた、という感じだ。 しかしふわついた霊の仕業といって施術を始めた霊幻としてはその姿勢を貫くしかなく、客もできた人間でそれに乗ってくれた。人の心理を読んで誘導するこの男が、それに気付かないはずはなかった。 そして客が帰り室内には、思いっきり眉を寄せた男が残された。万一に備えて使いに出されていた自分は、一部始終を眺めていたというわけだ。 『……客に合わされた』 出し過ぎた茶をさらに煮詰めて沸騰させたような、苦味の走りまくった声だった。独り言なのか、視線を注ぎ続ける自分への返答だったのかは分からない。 今晩付き合え、と言われたのはその十分後だった。 「……せめてツボでも押しとけばチャラだった」 「どういう相殺だ」 「……お愛想代だよ……くそ」 こいつが酒に弱いのは食い物を入れないからじゃないかと思いながら、チー鱈を一本つまむ。いつ食べても同じ味だ。嫌いじゃない。 「お前は変なところで向いてねえなあ」 「うるせえ向いてる」 霊幻のノーマルの人間としての能力は、不確かなモノと存在だらけのこの商売に最適だ。本物だろうと偽物だろうと「それ」が見えない依頼人を納得させるのだから頭と口が回り、神経だって太くなければやっていけない。しかし能力と性格の適性は、等しく同じとは限らない。 「なんで霊能相談だったんだ。その舌あんなら他にもあったろ。コンサルとかよ」 「……ハタチそこそこの実績ねえ若造に、んな依頼来ると思うか? あの手の仕事は見える結果出してなんぼだろ、口先じゃまかなえねえ」 「……素直にパワーストーンを売るって選択は」 「元手がかかるし在庫不良のリスクもある」 「その現実主義でこっちの世界に手ェ出した理由がますます分からん」 独立なんかしなくても、どこかの会社で営業でも販売でもすればよほど稼ぎそうだ。潰れそうな店だって軒先に立たせれば、それなりの売上を出すだろう。 「うまいこと言って買わせんのは飽きたんだよ。……いくら売ったって誰の記憶に残るわけでもねえし」 うまいことを言うだけで売れるほど客は間抜けではないし、納得なり満足なりさせているから売れたのだろう。今と同じように。 お前の難儀なところはそういうところだとつくづく思うが、明日にはこの会話も忘れているだろう酔っ払いに言いはしない。 くそ、とまだぶつぶつ言っている男が頭を転がす。へこんでいる男の頭、または缶ビールに轢かれそうになっているチー鱈やらナッツやらを救出し、広げた袋を適当に重ねた。 「お愛想代ってほどのこともねえ。いつもと同じだろうよ」 「……俺のプライドの問題だ」 そう言って、デコが冷たい、とようやく頭の下からビール缶を抜いた。そのままテーブルに突っ伏す。 「霊幻」 名を呼ぶと、テーブルに頭を乗せたままこちらを見上げた。額に四角い跡がついている。酒が回って血色が良くなった目元よりも赤い。しょうがねえなと一つ息を吐き、気が済んだなら寄越せ、と握りしめている缶を取り上げた。拗ねて半分になった目はこのままふて寝しそうでもあるが、ここで寝るなら自分を誘いはしない。 「もうめんどくせえから口開けろ」 「……ほかに言い方ねえのか」 「悪霊に配慮を求めんな」 不満そうな視線を寄越しつつも、酔っぱらいは「あ」と口を開いた。色気も何もない。そんなに開けなくていい、と言っても、どうせ開かせるだろうが、と返ってくる。延々続くのが目に見えているから好きにさせている。 顎を掴み、口を口で塞いで身体を床に倒した。 いつからかはもう忘れたが、いつからかこんなことをするようになった。 好きだとか嫌いだとか言う言葉は一つもないし、最後までできたことも、未だ一度も、ない。 ◇ 初めてこうした夜も、酒が入っていた。二人で飲み、潰れた霊幻を家まで運ぶこと自体は初めてではなかった。ただ確かその数日前、シゲオが何かを報告しにきていた。節目や決断や、それに伴う合否やらが、学生には何かとあるものだ。 お前はもう大丈夫だ、とあのとき笑った男は、その日も師匠らしくいい顔で話を聞いていた。時にからかい、でも最後には背中を押して。 シゲオにとって霊幻新隆はいつまでも師匠であるだろう。相談所には芹沢もいる。シゲオだけでなく、霊幻の周囲にも人が増えた。空間も関係性も、いい形に変容し続けている。 けれどこの男のコンプレックスのようなものが消えていないことは、会話や表情から垣間見えていた。 「水持ってきてやるからまだ寝るなよ」 その日、潰れた男を部屋に運びベッドに転がし、水を汲んで戻れば、とろんとした目が自分を見上げていた。 「……お前、普段絶対しねえ顔してるって分かってるか?」 はー、とため息をつき背中に手を差し入れる。返事は最初から求めていない。グラスを口元に持っていけば、素直にごくごくと水を飲んだ。そしてまた、ぼんやりとこちらに視線を向ける。何か言いたい顔をしているが酔っ払いだ。さっさと寝かせちまおう、と布団の上に戻したときだ。 ――……おれも。 呂律が回らないまま、呟きは続いた。半分以上聞き取れなかった。けれど断片的な言葉の切れ端だけは鼓膜に届いた。この男の内側で繰り返され、いつまでも解決されないそれだ。 人の弱みや揺らぎを見つけることは、悪霊にとって至極容易い。あえて聞かなくとも、意識しなくとも分かる。ましてそれなりの時間、仲間のように過ごしてしまっている上、まともに隠せない男の口から出る不安や願望なんて。 ――おれも、なにかに。 「……ああ」 柄にもなく手を伸ばしてしまうくらい、分かりやすい。 短く答え、伸ばした手で髪に触れた。わりと堅い茶色い髪が、指の間を滑った。 いつもの醒めた眼差しが消えていたせいもあるだろう。あれはおそらく、庇護欲だった。まだたった三十年も生きていない、でも今生きている、自分から見れば子供のような相手への。 撫でられた男はぼやんとしていた目をふにゃりと緩ませた。普段見せることのない、緩みきった顔。子供や、部下や、何かを守る立場から離れた顔だ。 緩んだ目は閉じられて、口元がほんのり上がった。ごろごろ鳴る音が聞こえてきそうだった。酒のせいか、体温に触れることがそう多くないせいか、霊幻の頭はやけに温かかった。 ベッドの横に座り込み、背を丸めた。そして、笑っている口の端に触れた。目蓋は再び持ち上げられ、自分の姿を映した。相手を確認するように、遅いリズムで瞬きをする。 ――酔いが覚めたか? それにしては反応が鈍いが、これで酒が抜けて何をしやがると責められたって、いくらでも言い逃れはできる。と身構えたというのに、悪霊に唇を押し付けられてもなお酔ったままの男の口は、想定外の言葉を紡いだ。 「…………する?」 「……しねえよ」 どこまで緩んでやがんだ、と休眠状態の頭を掴んで軽く揺さぶる。んん、と霊幻が首を振って不満の意を表明するので離してやる。 「……しねえのか」 「朝んなったら死ぬほど後悔するぞ」 「そうでもねえと……思うけど」 「いいからとっとと寝ろ」 立ち上がると、霊幻はまた自分の姿を追った。その目で見るな、俺様も見られたからってなんだ、所詮は酔っ払いだ正気じゃねえ、と言い聞かせる。 状況が分かっているのかいないのか、霊幻は引き止めようとはしなかった。視線と沈黙との戦いだった。 毒気も、斜に構えた目線もない目でぼんやりしていた霊幻だったが、頭が回らないなりに状況を理解しようとしたらしい。 「……ありがとな」 うとうとした目で礼を言うと、枕に半分顔を埋めて丸まった。 人間の安心しやすい体勢だ。ただそれだけだ。このまま放っておけば寝て朝になる。それがいい。 そう、言い聞かせているのに、足が動かなかった。 ――おれも、なにかに、なれるのかな。 いい師匠に、特別な何者かに、なりたい姿に。 自分も生きていた頃思ったのだろう。だからこうして悪霊となってこの世に残り続けている。けれどもう、何を強く願ったのかは覚えていない。 大人になっても望む自分にはなれていなくて、下からは才能や能力のある人間が現れる。時間が有限であることを嫌が応にも知る。焦りは年月を重ねた証拠で、有限なのは、生きている証拠だ。 ――生きてんだなあ、お前は。 それだけで、かわいいもんだと。そう思う自分は末期だろうか。もう死んでいるから末期も何もないのだが。 「おい、詰めろ」 「……?」 眠りかけた男はこちらを見上げた。そっち、と壁側を指差せば、よく理解してない顔のままもぞもぞと身体をずらした。 狭いベッドに無理やり並んで、向かい合わせに抱いて、口を開けろといったら雛鳥のようにぱかりと開いた。 危機感がねえな、と苦笑してそれを塞いだ。 ◇ 翌朝の霊幻は案の定見事な青ざめっぷりだったが、あれで終わることなく今に至っている。いや、終わろうにも終われないというべきか。 「……なあエクボ」 狭いベッドに並び今日も呼吸が落ち着いたところで、霊幻は考え深げな声を出した。しかしそれは雰囲気だけであって、ろくすっぽ考えていないことは経験上読めている。 「お前に足りないのは思いきりじゃねえかと、俺は思うんだが」 思いきりよく何しろってんだ、とは答えが読めているから聞きはしない。聞かなくともこの男が自分で言う。このやり取りは体感として百遍は繰り返した。 「思いきって突っ込んでみりゃさ、案外あっさり」 「入るか。いい加減自分のケツの穴の小ささを自覚しろ」 「不名誉な言い方をするな。もう指は入ったろうが」 「二本がギリギリで何言ってやがる」 「ギリギリじゃねえし二本入りゃそれも入んだろ」 「へっ」 鼻で笑うしかない。逃げはしないが唸る奴が何を言っても無駄である。威嚇されているのか縋られているのか分からない。犬の仔の予防接種の気分だ。 入る、入らねえ、の平行線を何度繰り返したことか。霊幻の入る、にはなんの根拠もなく、普段のトンデモ論法を挟みもしない。何故突っ込まれようとしている側がこうも強気なのか。そう簡単には入らないし、エクボが入れようとしないと思い込んでいるがそれも違う。 ――本人が覚えてないっつーのがよ……。 だが覚えてないものは仕方ない。それが酔っ払いという生き物だ。 「いいか、指二本の太さを確認してみろ、そしてそれが最大値になり得るか想像しろ」 悪霊の癖に細かいな、と文句を垂れつつ手を掲げ、指の二本を見つめた。 悪霊と詐欺師が並んで天井を見つめているのも、話題が穴の話であるのも、どちらも己を遠い目にさせるが深く考えないよう努めて理解を待つ。 隣の男はようやく想像が及んだのか、む……、と一つ重たげに唸った。 「分かったか」 「……確かにこれが最大値は立ち直れねえ」 「そこじゃねえよ!」 顔を真横に向け突っ込むと、うるさい、と顔を顰める。 「冗談だ。想像したがいける。何事も試してみないことには」 「は、い、ら、ね、え、っつってんだ」 歯軋りしながら一音ずつ区切って返すとようやく黙った。舌打ちが聞こえたが。 勢いなどでは入らない。それは本人が覚えていないだけで経験済みだ。 あの夜、そこに指先を埋めただけでふにゃりとしていた身体は緊張し、第一関節を越えたところで完全に硬直した。大丈夫かと聞けば頷いたが、指を進めようとしたところで霊幻は、躊躇いに躊躇った間を開けて自分の名を呼んだ。エクボ、と。たった三つの音は、弱音を吐けない男が小さく零した音だった。続けられるわけがない。 一度目の経緯も最中の記憶もほぼ皆無の霊幻は、以降二人で飲むときには舐める程度しか口をつけず、その代わり緊張で喋り続けるのを黙らせて、ようやくの指二本である。 「つーかお前さん、入れられたい願望があるわけじゃねえだろ」 「まあ……それはそうだが」 「なら別にいいじゃねえか」 慣れれば気持ち良くもなるのだろうが、わざわざ手前の痛みを味わうこともないだろう。 他意はなくそう言っただけだというのに、霊幻にしては珍しく視線を彷徨わせた。何かを言いあぐねている。 「なんだよ」 「…………割に合わないだろ、それじゃ」 「……誰が?」 「お前以外誰がいんだ」 「何で俺様だよ」 割に合わない、とは。やったことに対し、返ってくるものが少ない、ということだ。そんなことをこの悪霊様がやると思うか。 「俺ばっかりされてんのは不公平だろって話だよ。入れる方が面倒だってんなら……それはそれで構わねえけど」 何言ってんだこいつは、と喋り続ける横顔を凝視する。霊幻はちらりと目を向けてきたが一瞬目が合うと落ち着かないように視線を泳がせ、口を開くべきか迷い、最終的にぐっと黙り込んだ。余計なことを言った、と大きく顔に書いて。 「……お前の頭は鳥並か?」 「鳥類馬鹿にすんなカラスを見ろ賢いぞ」 天井に顔を向けたまま返してきたのを無視し、身体を反転させて上体を起こす。無表情を貫く顔に上から近づいていくと、意図を察した霊幻はあからさまに戸惑った。 ――まあそうだろうな。 素面に戻り、一通り済んでから口を合わせたことは一度もない。でも、終わればあっと言う間にいつもの奴に戻るからしようと思わなかっただけで、必要とあらばする。それが、今だ。 え、え、と下に引く顎を取って上を向かせ、躊躇わずそれを塞ぐ。ぐちゅりと舌を絡ませると剥き出しの肩がひくりと揺れた。ぎゅうと目を瞑り、しかし突き飛ばそうとはしない。きつく絡めた舌を緩め、粘膜を重ねてゆるゆると口の中をかき回せば、浮いた肩が再びベッドに沈む。 「……手ェ出したのは俺様だって言ったろう」 言って、濡れた唇を拭ってやる。たかだかこれくらいの状況についてこれていない霊幻はされるがままだ。どう反応すべきか決められないでいる。頭で考えることでもないものを。しかしそれは性分なのだろうからいいとして。それよりも。 「……お前、つまりは納得してねえな……?」 声を低め、至近距離で凄む。 「今度こそ最初から説明するか」 「っ、しなくていい! それは! ビタ一文疑問はねえから!」 慌てて身体を上へ逃し、囲われた腕の中から身体半分脱出した。逃げるほどのことかと思うが、片肘をついて見逃してやるとする。聡い男であるはずなのに、素直じゃない分からず屋が認めようとしない。 『俺、お前に何した……?』 酒が抜け、翌朝状況を察した霊幻は呆然とし、一通り慌て、考え込み、そう自分に問いかけた。だから答えた。何もしてねえ、と。お前をかわいい、と思ったからかわいがった。言葉通り、事実はそれだけだ。 霊幻は悔しいような情けないような、なんともいえない顔で口を噤んだ。自分が何かしでかさない限り、エクボが手など出すはずがないと思い込んでいるらしかった。前夜まではエクボ自身こうなるとは一ミリも思っていなかったのだから、無理はない。 ならば、そう思うに至った経緯等々を具体的に教えてやるしかない。と口を開いたというのに、それはそれで受け入れられないのかぎょっとした顔になって必死に止めてくる。恥ずかしい、というだけなら別に無理矢理聞かせる気もなかった。しかし霊幻の頑なさはそれだけじゃない。だから一つだけ聞け、と両手首を掴んで言った。 『お前がシゲオをかわいいと思うとき、悪い感情いっこもねえだろ』 『……モブは子供だ』 『俺様から見ればお前さんも子供だ』 『……』 『分かったか』 沈黙のあと、分かったが子供じゃねえ、とかろうじて返してきた頭をかき混ぜると、じんわり涙目で睨んできた。 あのやりとりだけで納得したとは思っていないが、まったく変なところで頑固な男だ。 「ともかく、生きてる身体ってのは一個しかねえんだ。ぞんざいに扱うな」 痛いも苦しいも、気持ちがいい、も。身体があって感じることだ。 「……お前は?よく低級悪霊はまずいって言ってる」 「言うけどな。俺様のは、お前らの感覚とは違う」 吸収するときの快・不快は味覚で表現するのが馴染むしイメージとして近しいが、血肉のある肉体のそれとは感覚が違う。五感は全て似て異なると言っていい。思念も霊体もある自分は「生きている」が、生者とは違う。 ――この感覚は、俺様のものであって俺様のものじゃねえ。 触れている髪の感触も、手のひらが感じる温かさも、他人の感覚を吸い上げているだけだ。 普段ならすぐに手を払いそうな霊幻は大人しく頭を撫でられていたが、ふいに言った。 「……なあ、ちょっとそこから出てきてくんねえか。一瞬でいい」 「……?一瞬だぞ」 ずる、と借り物の身体から抜け出す。重みのない、宙を浮遊する身体だ。指だってすり抜ける。浮かぶ霊体の下側に、何を思ったか霊幻が手の平を差し出した。受け皿のように。 「なんだ?」 「手乗り悪霊」 「オイそれだけのためか」 「お前も一つだろ」 手の平が持ち上がり、霊体に触れ、重なった。感覚はほとんどない。僅かに揺らぐ、その程度だ。霊幻こそ触れた感触は皆無だろう。それでも手のひらと自分の霊体は重なっている。緑色の中に、手の肌色が透けて見える。 「除霊されたら素粒子レベル? 下手すりゃ消えちまう。お前だってお前の身体は一つだけだ。感覚は違うのかもしんねえけど……、でも、あるんだろ、なんかは」 ふわんふわんと下から手を持ち上げて、この上級悪霊の身体で遊んでいる。シゲオくらいの能力があればつまんだり握ることも可能だが、すかすか通るだけがいいところだ。しかしこの男の能力で、この身体が見えるようになっただけでも奇跡だろう。 そして自分には、触れられた、と錯覚する自由がある。 ――……知っちまったからなあ。 他者を通してでも、この男の体温を知ってしまった。手のひらの硬さも。錯覚は、もしかしたら希望と似ているのかもしれない。 「まあだから、一つ同じ土俵で頼む。……こーいうことくらい」 そう言って、霊幻は片方の眉を下げ、半分困ったような笑顔を作った。ああやっぱり伝わってねえじゃねえか、と思う。しかしそれがこの男らしいとも思う。意地っ張りで人の好意を素直に受け入れられなくて、でも人には与えられる、やっぱり難儀な男だ。 「……いつだってガキってのは生意気だな」 「若いって言ってくれるかおじいちゃん」 「ジジイ扱いすんな。あと下から揺らすな」 霊体の下の方で、ボールを弾ませるように動く手が視界に入って落ち着かない。すり抜けるだけだろ、と言うと、んー、と顎に指を当てて考え、答えた。 「そうでもない」 「――は、」 「実際はそうかもしれねえ。でも、触った気にはなる」 「……」 「そういうの大事だと思うぞ、俺は」 俺がやってる商売もそんなもんだしな、と納得できるんだかできなくなるんだか、よく分からないことを付け足した。 「はー……」 「?」 手のひらの上から霊幻を見上げ、さて、と考える。 ――デコか、……いや、デコだな。口にいくと食われるみてえだしな。 よし、とターゲットを定め、斜め上にある額を目がけて勢いよく飛び上がった。 「――え、うわっ」 額の表面を滑って一回転し、借り物の身体へ戻る。 「頭突き?!なんで今?」 「なんとなくだ」 こういうとき霊体は便利である。顔を見せたくない場合身体持ちより遥かに誤魔化しやすい。 よっこらせと身体を起こし、困惑に目をぱちぱちと瞬かせている霊幻の額をちょいとつつく。 「??」 「確かに、そんな気ってのは大事だな」 「どんな気だよ……」 に、と口の端を上げて笑えば、悪ィ顔だな、と褒め言葉が返ってきた。 素面で口をつけたことさえ今日が初めてなのだから、霊体でしたことなど当たり前にない。さすがに照れというものがある。が、言わなければただの頭突きであるから霊体は便利だ。 「おら、風呂行くぞ」 「狭いんだから一人で行けよ……」 「お前さん放っておくと寝るだろ」 「俺は朝派なんだよ」 「べったべたなの俺様に拭かれてえか」 「……べったべた言うな、入るわ」 ぶつぶつ言いながら立ち上がった男の額に、こつ、と曲げた指の背で触れる。 「だからさっきから何」 「入れたらこんなすぐには立てねえからな」 「――……っ」 不意を突かれ赤面を隠す術のない男の腕を引き、歩いて数歩の風呂場へ向かう。霊幻が後ろから脚を蹴ってくる。おーおーかわいい顔だな、などと一言も言ってないのに、だ。面白いものだと思う。 「……何笑ってんだ」 「いや、人間っつーのは面白いよな」 言ったって伝わらないこともあれば、言わないのに伝わることもある。気持ちや気分、気配なんか、目を懲らしたって霊より見えない。それを発して受け取って、へこんだり赤面したり寂しがったり喜んだりする。 「――霊幻」 「なんだよ」 怪訝な顔で見上げてくる霊幻の髪はところどころ跳ねて、素っ裸の色気のない男の身体は少しべたついている。入れろ入れろとうるさい口は今、右下を少し下げて引き結ばれている。額に口付けられたなど微塵も気付いていない。 ――かわいいな。 ク、とつい笑いが零れた。何も言ってはいないのに、やっぱり足が飛んできた。 >>『答えはまだ口の内側』へ |