答えはまだ口の内側

 あの日、飲み屋を出た記憶はなく、気付いたら家にいて、朝だった。
 だから感覚としては、飲んで、酔って、起きたら隣に悪霊が裸で寝ていた。ということになる。
 酔っ払っていた間に何が起きたかはすぐ分かった。
 ――嘘だろ。
 そう思いたくても、身体の痕跡は単に裸で寝ただけのものではなく、まず自分たちが裸で寝る意味も分からない。
 自分がしたのか、とも思ったが、尻にほんのり違和感があったのと、まさか酔った自分にこの悪霊がヤられてしまうとも思われず、された側であると結論付けた。
 しかし、酔った程度でエクボが自分を抱くとは思えなかった。本体は霊体だし、たとえ憑依してそんな気になったとしても、相手に自分は選ばないだろう。好みの問題、相手として都合が悪い問題、そもそも一度もそんな目で見たことはないはずだ。
 その上で事に及んだ。かつ、かわいかった、などと宣った。自分が何かした以外考えられない。
 かわいい、が含む意味は広く、世間では概ね褒め言葉として通用している。が、含むニュアンスとしては無邪気さや幼さがあったり、未熟であっても懸命であったり、単純に愛らしい何かであったり、つまり大人の男としては諸手を挙げて喜べる褒め言葉ではない。
 だからおそらく、情けないところを見せたのだ。酔っ払った以上に。
 情のある悪霊に、手を出させてしまうくらい。

 能力のことも、自分の後ろめたさも、エクボには大体みんなバレている。今更取り繕う必要も意味もない。
 それでも自分はあの相談所の所長で、最強の超能力者の師匠で、何故その肩書きがついているかといえば、自分だって何者かになりたかったからだ。人とは違う特別な存在になりたかった。モブのように、芹沢のように、そして、緑色の悪霊のように。
 神になるのはやめたらしいが、悪霊の中では上級で、エクボ曰くの低級悪霊はあっさり食らう。モブが自分の代わりに寄越すのだから力は強いのだろう。そう、強いのだろう、としか自分には分からない。
 周囲は普通を逸脱した何者かばかりで、自分一人、所長という肩書きがあるだけの普通の人間だ。自分だけが。
 そんな事実を噛み締めたってろくな発想も感情も生まれない。だから深掘りはしない。肩書きしかなくたって、あの中では自分が、あそこに集う面々を守るべき大人でいたい。
 そうやって立っているつもりだったのに、かわいい、などと思われては立場がない。失態どころではない。二度とあんなことは起こさない。
 だから禁酒を決行した。一カ月続いた。その後一人酒へ路線変更し、順調に二ヶ月が過ぎようとしていた。

 その夜もいつものバーでカウンターに突っ伏していると、隣の椅子が引かれ、見慣れたスーツの男が座った。目線を上げて見遣った耳は欠けていた。挨拶もなく、男はおもむろに言った。
「帰るぞ」
「…………嫌だね」
 カウンターに置かれた男の手を眺めながら答える。座ったんならなんか飲めよ、と言いたかったが堪えた。せっかく一人酒を二ヶ月も継続しているのだ。この程度でご破算にしたくない。
「飲まねえなら帰って寝ろ」
「飲んでる」
「もうコレ水だろ。氷全部溶けてんじゃねえか」
「……水じゃねえ」
 悪霊は飲みかけのグラスを持ち上げ、軽く揺すった。ぽたぽたと水滴がカウンターに落ち、グラスの底より一回り大きい水溜りができた。透明な水の表面に、小さなライトの光が映る。カウンターに頭を乗せている自分の視界に入るのは、水溜りと、グラスと、それを掴む男の右手、スーツの端だけだ。
 スーツを見ていると、靄をまとったままの記憶が身体のどこからか湧いてくる。覚えている、と言えるほどの記憶でもない。たとえその靄が晴れても、きっと何の役にも立たない記憶だ。
 霊幻、と悪霊が呼ぶ。
「お前さんを部屋に放り込んだら帰る。手は出さねえよ。それならいいだろ」
 ――何だそりゃ女子か。
 余計に情けないだろう。御免被る。
「……断る」
「なら手ェ出すか」
「……」
 それこそ冗談じゃない。こんなとこに居ねえでさっさと帰れ。そう言いたいのに、望む言葉を舌が乗せてくれない。
「……とにかく、俺は帰らねえ」
「なんで」
「なんでもいいだろ」
 知ってる奴が隣に座るの三ヶ月ぶりなんだよ、と口にしないで答え、目を閉じた。はー、と溜め息が聞こえる。
「オイ、財布は」
「……お前の酒代なんか入ってねーぞ」
 上着の中、と答えれば、悪霊は椅子に放っていた上着から財布を抜き取った。札が数枚抜かれ、カウンターの向こうへ渡される。
「俺さあ」
「ん」
「ヒモができたら、一瞬で食い潰されるな」
「お前みたいなカツカツの奴のところにヒモは現れねえよ」
「失敬な……俺には実は」
「オラ、会計済んだから立て。立てねえなら担ぐぞ」
「は、余裕だっつーの」
 頭が少しぼんやりしているくらいで、酔ったうちには入らない。あれから酒量はきっちり守っている。ひどく酔わなければ飲んだっていい。一人なら、そこまで飲みすぎたりしない。
 ――もーお帰りか。
 立ち上がり、飴色の床板が作る線に沿って歩く。目の前の男の肩には、自分のスーツが引っかけられている。この男は一体何故ここに来て、自分は何故言われるまま店を出たのか、酔ってなくても意味は分からなかった。

 店を出るともう風は冷たくなっていた。前はまだ暑かったのに、正しい酒との付き合い方をマスターしているうちにもう秋だ。
「……寒ィ。上着」
 先を歩く男は振り返った。こちらに上着を放ってくる。乱暴だな、とそれを掴み腕を通している間に、エクボは目の前まで近づいていた。
「……何だよ」
「たまに人の肩借りるくらいしたって、バチは当たらねえんだぞ」
「……バチって神さんが当てんじゃねえの。お前悪霊だろ」
「俺様は神志望だぞ」
「今も?」
「まあ……今は神じゃなくてもいい」
「いいのか」
「今のところはな」
 その経緯を、自分は良く知らない。神になる、など生きている自分には想像もつかない。もし自分が一度生を終えたら分かるのか。それともエクボが特殊なのか。薄っすらと察せられるのは、まったくの口だけではないということだ。力も、願望も。
「……? え、なに」
 考え込んでいたら急に腕を取られ、肩に回された。今日は普通に歩けるから、身体が斜めになってむしろ歩きづらい。それにまた、ふわ、と形のない記憶が身を包む。
「――で、どうすんだ」
「どうってなんだよ」
「手ェ出されてえか、一人で帰りてえか」
「……送るだけは」
「ナシんなった」
「なったのかよ……」
「なるだろ」
 ぽん、と後頭部を叩かれた。また一つ、蘇る。手のひらの感覚。振りほどけないことは分かっていた。だから避けていた。
「……条件がある」
 言うと、エクボは目で先を促した。聞けるなら聞く、という顔だ。
「するなら、――いれろ」
 口にした途端、眉間に皺が寄った。こちらをまじまじと見て、考え込み、長い息を吐く。
「……分かった」
 タクるか、というので頷いた。別に歩けるが、歩いている間の間が持たないと思った。
 後部座席に並んで座ると肘が触れた。スーツの肌触りも、シャツの硬さもきっと知っている。実際は記憶の捏造かもしれない。ぼんやりとした記憶が再生するものは、みな都合よく一つに結びついた。
 ――優しくされた。
 具体的な記憶は何もないのに、それだけが残っていた。


   ◇


 酔ってではなく、しっかり意識のある中でするようになって、三ヶ月が経とうとしていた。事の始まりのあの日からは、そろそろ半年だ。
 ――なのに、まだ入れねえ。
 初めてしたとき、入れられなかった理由は分かった。これは意識があるから耐えられるのであって、目的意識と忍耐力がなければ無理だ。
 二度目の夜、心を無にして買ったローションのおかげで指一本は入ったが、気持ち良さとは程遠く、前立腺を刺激されて苦しさは紛れたものの、苦しさと快楽が体内で別個に存在しているようだった。今日はここまでだな、と言われてほっとしたことは認める。でももう入れてもいいだろう。何故ならば、今は結構な割合で気持ちがいいからだ。呻き声とは違う声が、出てしまうくらいには。

「オイ、今日は口塞がねえぞ」
「え」
 だから突然そう言われ、つい素で返してしまった。えって何だ、と自分で突っ込んだがエクボに気にした様子はない。
「お前さんちょいちょい酸欠んなってるだろう」
「……酸欠くらいどうってこたねえ」
「いい加減諦めろ、声出るようなことしてんだ」
 言うなり、後ろの指を増やされて咄嗟に口を引き結んだ。やれやれと言った顔で見下ろしてくるのを睨み返す。
 ――お前は気にしねえかもしれねーけどな……!
 どういう納得の仕方をしたのかエクボの態度は日常とそう変わらず、何の疑問もない顔で自分を抱く。しかし自分はまだ、そこまで割り切れてはいない。

 初めて声が出たとき、自分でも全身赤くなったであろうことは分かった。
 出したことのない声と、恥ずかしいと感じている自分を見られることが恥ずかしかった。開き直って堂々としている方がまだいい。三十にもなろうとする男が、喘いだ挙句恥じらうなんて目も当てられない。とは言えそう簡単に開き直ることもできず、笑うなら笑え、と横を向いていた自分の顎を、エクボは掴んだ。正面を向かされ、それでも往生際悪く目を逸らしていたら、逸らしようがないほど近くに顔が近付いてきた。
 口開けろ、と言った悪霊は、自分が開けるまでもなく無理矢理唇をこじ開けて舌をねじ込んできた。ん、と漏れた声は口の中に吸い込まれて、ああ、そういうことか、と理解した。
 以降ずっと、声が出そうなときは塞がれるに任せている。
 何をされると声を抑えきれないか。それはほぼ決まっているから、塞ぐ方も慣れている。だから引き続き塞いでほしい。そこだけは下手に出てもいいから頼みたい。しかしこの男がしないと言うときは頑としてしないから、どれほど言い募ってもまず覆してはくれない。

「ほら、こっちも慣れろ」
「っ」
 付け根まで入った指が、中で動き出す。後ろを弄られながら前を扱かれる。半ば強制的に与えられる刺激も今は受け入れられるから、本能的に馴染んでいる快楽と、覚え始めたそれの二つに呑まれていく。これをされると、抗えない。
 内側の弱い部分を押され、短い声が漏れた。久々に聞く己の声に、ぶわ、と顔から首まで熱くなる。しかし喉の奥に力を入れて、奥歯を噛んで堪えても、不意に漏れるものは止められない。
 声が出るようなことをしている。それは確かにそうだ。出るなら出せばいい、と自分がする側なら思う。だが、逆となるとそうはいかない。
 ――ただでさえ、加減されてんのに。
 優しくされて甘やかされて、されるがまま喘ぐなんて冗談じゃない。子供じゃねえんだ、と歯を食いしばる。この男から見れば子供かもしれないが、自分は子供のつもりはない。
「ッ、ん……、は、……」
 断続的に身体を跳ねさせて、息を殺して、大丈夫そうなときに呼吸をして、それを繰り返していると、横になっているのに頭がふらふらしてくる。
「お前な……結局酸欠じゃねえか」
「……」
 声の方をぼんやり見上げると、エクボの顔が近づいてきた。髪に手を差し挟まれ、唇を塞がれて、ほっとして力が抜けた。頭を抱え込まれると思考が緩む。指がより奥まで届いて腹の底がびりびりとした。
「……それァ無自覚か」
「……?」
 口を離したエクボに問われたが、頭がまともに動かない。なるほど酸欠だ。
「……なにが」
「……俺様はお前が心配だ」
「だから、なに……、っン」
 中に入った指が、僅かに開かれた。微かに苦しい。こっちに集中してな、と耳元で囁かれる。前を掴む手の力が強くなり、ぞわぞわと背中に刺激が走る。
 前を刺激されるほど、後ろは指を締めつけることになる。それで抜き差しされるから入り口の感覚がどんどん過敏になる。
 ――もう、出る。
 思ったとき、広げられている入り口に、違う指が触れた。ぐ、と押され、つい身体が上へ逃げようとするのを咄嗟に止めた。押す指が縁をなぞる。心臓の音が高くなる。
「三本いけるか」
「……いける。っていうか、指じゃなくて、いい」
「アホか、ダメだ」
「大丈夫だっ、て……、あ……、……――ッ」
 二本呑み込んでいた箇所を、外から強引に広げられた。一本目も、二本目もこうして慣らされてきたから、いずれはこれも慣れる。それまで少し苦しいだけで、圧迫感に涙は出るが、生理現象だ。
「っ、あ、さわる、な」
 エクボの手が前に触れ、固く閉じていた目を開ける。そこに触れられたら反応する。前で気持ち良くなれても、後ろを締め付けることになる。力を抜きたいのに抜けなくなる。
「触らねえとキツイだろ」
「いや、だ」
「ってもな」
「……しめたく、ね……、エク、……えくぼ、」
「……っおまえ、なあ……」
 分かったよ、と言うと手は離れ、エクボは身体を倒してきた。小さく呻くと、さわ、と髪を撫でられる。
「口開けろ」
 言われるまま開ける自分は鳥の雛だろう。塞がないと宣言したというのに、珍しく今日は緩いようだ。
「……ん、」
 触れる瞬間の唇は柔らかい。押しつけられて唇を食まれ、強引に形を変える強さであっても、触れていれば気持ちがいい。呼吸を奪われているのに、奪われたことで息ができる。
「んぅ……」
 舌先で上顎を擽られて鼻から声が漏れても、もう恥ずかしいと思う余裕もなかった。指は少しずつ進んで、付け根近くになるほど太くなる。それを意識しないようにするには、口への愛撫に没頭するのが一番だ。
 三本目の指が付け根まで入ると、唇は解放された。もう身体に力は入らなくなっていた。
「も……、入れろ、よ」
「指が動かせるようになったらな」
「……」
「んな顔すんな、進んだろ。それに」
 入っていた指をまとめて抜かれ、声が漏れる。それに構わず、エクボは再び中に指を押し込んだ。慣れている質量、二本だけだ。
「……ぁ……」
「これは気持ち良くなったろ」
 三本の苦しさを知ったら、二本はただただ気持ちがいいだけだった。自分の顔を見て満足げに笑うと、答えを待たずに指を動かし始める。固い指と関節が入り口を擦る。内側の粘膜を撫でられるたび、吐く息が熱くなる。思考も感覚も、すべてそこに持っていかれる。
「ん、イっとけ」
「…………おまえ、は……?」
「俺様も適当に……、なんで顰めっ面だ」
 眉を寄せた自分を見下ろす顔は、呆れ混じりの表情を浮かべている。しかしそれだけだ。何も困っちゃいない。手を出したのは自分だと言いながら、俯瞰する場所に立っている。きっと最初から、今も。
 ――もし、コイツが本当に生きていたら。自分自身の生身の身体を持っていたら。
 本能的な欲求に、もっと必死になるのだろうか。それとも変わらないのか。自分を抱くことはあっただろうか。一回だけの、人生だと思っていたら。そこで何かを為そうとしたら。
 そんな仮定に意味はない。仮定の結果がなんであろうとエクボの身体はない。でもそこに魂はあって、剥き出しの霊体がある。借り物の身体の中に、今はいる。
 どうしたらこちらに来るのか。子守りみたいな相手の仕方から、どうしたら同じ場所に。

「……オイ」
「おまえもしろ」
 いまいち力が入らないが、エクボのそれに手を伸ばすと、いくらか表情が乱れた。はー、と息を吐いて、弱った顔で頭をがしがしとかく。
「負けず嫌いなのか? お前さんのそれは」
「っ」
 届かなかった手はシーツに戻され、エクボの手は互いの性器を合わせて握った。熱の塊だ。背筋が浮き上がる。この熱を、この悪霊はどう感じるのだろう。
「一緒にすると、イったあと休めねえぞ」
「……よけーな心配すんな」
 経験済みだから分かっている。達するのはいつも自分が先で、果てた直後も扱かれて、しかも力が強いから頭はパーになる。それでも自分ばかりされるより百倍いい。
 ――それに一瞬、興奮してんのが見える。
 一緒にすると、達したあと力の入らない自分の背中をエクボは決まって引き寄せる。加減した力ではなく、思いきり密着する力で。息遣いも、吐き出すときの呻き声も聞こえる。それを聞くと、自分と同じだと思える。
『かわいいと思ったからかわいがった』
 どんな意味にしろ喜ばしくはない、と思ったそれは、最近少し変わりつつある。それでも、かわいがられる一方なんか御免だと思う。
 ――早く、入れねえかなあ。
 もっと生々しい姿が見たい。能力を持つもの同士の共感やぶつかり合いはできないが、これはこれで一つの形だろう。
 神になろうとした男の姿を見てみたい。隣に並び立ちたい。
 自分は自分の、やり方で。

「――……ッ」
 エクボが手を動かし始め、数分も保たずあっさり熱を吐き出した。早いとか、慣れてきたとか、意外にもからかわれたことはない。荒い息を繰り返している間に指は抜かれ、空いた腕が自分を抱いた。細めた目に、ようやくちらりと熱が灯る。
「霊幻」
 名を呼ばれ、言われるより先に口を開いた。合わせる唇にはいくつかの意味と目的がある。深く考えないでいるのは甘えだと自覚している。
 でももう少し、このまま目を瞑ってほしい。
 我儘で弱くて狡い自分を、かわいいなどと言うからだ。
 そう責任転嫁する声も、塞ぐ口の中へ吸い込まれていった。




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