殻を割るもの |
しなくてすむなら、痛い思いなどしなくていい。 入れない理由はそれだった。自分自身の身体ではないから、エクボの欲求がそう高くないこともある。 しかし最近、入れようと思えば入るだろうという段になって、躊躇う理由が一つ増えた。 入れなければただの抜き合いだが突っ込んだらセックスだ。いいのかアイツは、と思う。 ――遊ぶタイプには見えねえ。 本来の性志向でもなく、相手となる自分は死んでいて、身体は借り物だ。貸し借りの勘定みたいな対抗心で身体を繋げる必要もない。セックスフレンドだと割り切れるなら構わないが、おそらくこの男はそういう面での器用さに欠ける。 パソコンに向き合い、投稿サイトを熱心に見ている男のつむじを見下ろしながら考える。 ――『エクボ』。 どうしても、というときにこの男は自分の名前を呼ぶ。口を塞いで、頭を抱えてやると少しだけ力を抜く。それがどういうことか、自覚しているのか、何を考えて自分に入れろと言っているのか、本当のところは分からない。 されることは嫌ではないはずだ。でなければ二回目はなかったし、自分から誘ってはこない。手を出されたくないから酒断ちをしたのと思ったが、そうではなかった。知らないところで弱みを見せるのが嫌だったのだろう。 外からの風で窓が鳴った。それをきっかけに霊幻はパソコンから離れ、椅子の背にぐたりともたれかかった。 「――俺が見てもどうにもならねえ」 そう吐き出し、画面を睨んでいた眉間を揉む。 「最初からそう言ってるだろ。気になるならシゲオを起こせ」 「できるか。……やっぱり回答した番号聞いときゃ良かった」 「覚えてねえって言ってたろ」 今日はこの男の弟子の入試日だった。試験の終了時間をあらかじめ聞いていた男は終了直後からその高校の模範解答を探し、進学塾や投稿サイトの予想配点などを見ているのだ。なお試験を受けた当の本人は疲れたからと早々に寝てしまった。だというのに、今度は予想合格ラインなどを調べ始めている。試験が終わって早三時間、もう日が暮れた。心配して、焦って、自分自身のことよりよほど真剣だ。 その男を、かわいい、と思ったからかわいがった。その後都度、かわいがっている。 最初はそれ以外の理由などなく、それくらいのことがあってもいいだろうと思っていた。しかしだ。 万が一、本気で情が湧いたらどうなるのか。自分はいい。問題はこの男である。まだ生きている奴が、悪霊と惚れた腫れたをする必要はないだろう。ただでさえ他人との深入りを避けているような男をこちらに寄せてしまったら、生者から遠ざけることになるんじゃないか。 今更だということは重々分かっている。承知の上で触れた。しかし、少しずつ段階を踏んで進んでいる今の状況が、引き返す道にも目を向けさせる。 ――一度考えた方がよくねえか。俺様も、コイツもだ。 おそらく入れるまで、この男はやめようとはしないだろう。入れたらやめるとも思えない。入れてしまったら、また一歩こちらに近づけることになる。 「――で、なに」 「あ?」 「さっきから俺のこと凝視してっけど」 ばれてたか、と口を曲げる。にや、と男は愉快そうに笑った。 「さてはエロいこと考えてたな」 「…………エロくはねえ」 「ウチ来るか?」 む、と返答に迷った。今考えていたばかりだ。すぐに答えない自分を見て、霊幻は意外そうに目を瞬かせた。 「……なんだ、神妙だな」 早い方がいい。一回でも少ないうちに考え直した方がいい。顔を見れば見るほどそう思った。 「しばらくしねえ」 「……へ、」 「俺様が全面的に悪い。が、考え無しに続けるモンじゃねえ」 「考え無し……って」 「だからお前さんも少し考えろ」 しばらくぽかんと自分を見上げていた顔は、ふっと下へ向けられた。乾いた音で、一つ笑った霊幻の肩が揺れる。顔を上げれば一変して、気怠げな視線が自分を捉えた。 「考えるって、何をだよ」 「……いや、この状況をだな」 「考えるようなことなんか、何もねえだろ」 言うと、パソコンに目を戻した。自分の姿が視界から完全に外される。 言い方か、タイミングが悪かったのか。そうじゃない、という方向に向かっていることだけは分かった。しかし口から出たものは戻らないし、遠回しな言い方をしたところでこの男は真意に気付く。 「モブんとこ帰っていいぞ。俺もあと少し調べたら閉める」 「霊幻、」 「次は明後日来てくれ。芹沢が来られない」 「……おい、俺様が言いたいのは」 「明後日十五時だからな、サボんなよ」 瞳の表面にモニターの色が映る。マウスはスクロールを続けているが、文字を追ってはいない。 サボりゃしねえよ、と返事をして窓から外へ出た。 自分自身の答えが出ていない以上、そうする以外なかった。 ◇ 二日後、相談所の扉の前でエクボは浮遊したまましばらく止まっていた。 気まずい。圧倒的に気まずかった。 今のあやふやな関係を全否定したつもりはないし、霊幻にとって悪いことを言ったつもりはなかった。むしろ逆だった。しかしお前は何か思い違いをしてる、と言おうにも、どう違うのか、これからどうするつもりなのか、まだ整理ができていない。 しかしここでいつまでも浮いているわけにいかない。依頼人はやってくる。 自らの重いため息を振り切って扉をすり抜け、正面の机で何やら作業中の霊幻に声をかけようとして、それより先に壁に視線を奪われた。 『年度末キャンペーン! 除霊三回で一回無料! 清めのオイルも差し上げます!』 と謳われた、微妙なセンスのポスターが入口すぐ側に貼ってあった。 「……なんだこりゃ」 「見ての通り告知ポスターだ」 「なんでまた」 「月末・年末・年度末ってのはキャンペーンを乗せやすいんだよ」 答えながら、霊幻は机の上に積まれていたポケットティッシュを大きな紙袋へ詰め始めた。 「で、お前さんは何やってんだ」 「販促ティッシュに広告詰めてる」 「……道で配るのか?」 「いや、まずは依頼人に渡して効果を見る。リピーター狙いだからな」 告知ポスターの縮小版を印刷し、ティッシュの背面に詰めるという内職を所長直々にやっていたらしい。 「けどよ、年度末って今月末だろ。配りきるほど客来るか?」 「けっ素人め。こんなん一瞬だ」 机の上をざっと片付けると、霊幻は一枚の紙をファイルから取り出し自分へ差し出した。A4の紙で視界が塞がる。 「でけえよ」 「なら机の上で読め」 それなら最初から机の上に置け、と思いつつ霊幻の机にそれを広げる。 「茶の準備してくるから読んで待ってろ」 一枚のペラ紙には、今日の依頼人と依頼内容についてまとめられていた。自分の仕事は、依頼人が持ってくる指輪の除霊らしい。依頼人の指から微かな邪気を感じたので本物と判断した。芹沢が。と書いてある。 随分と今日は準備がいい。これも年度末キャンペーンの一種かと読んでいる間に霊幻が戻り、そのほとんど直後に依頼人が現われた。 霊幻が手と指のマッサージをしている間に自分が霊を喰らう。湿っぽい味だった。茶を飲んだ依頼人が会計をする。早速ティッシュの出番だ。お友達の紹介も一回にカウントしますので、と霊幻はティッシュを二つ渡した。そうして茶を片付け、給湯室から戻って言う。 「これで大盛況になるかもしれないからな、人手が足りないときはまた頼む」 「そう簡単になるかよ……」 「やってみなけりゃ分からん。つーことで、俺は販促グッズの続きやるからお前はもういいぞ」 「……おう」 ひら、と手を振られたので見送られる形で何故か玄関から外へ出た。普段は窓から出入りするというのに。 そして来た時と同じように扉の前に出たことで、してやられたことに気付く。 ――あの野郎。 ここまでの流れをすべて計算していたのだろう。ポスターで気を反らせることから始め、外に出るまで仕事以外の会話を挟む隙はなかった。気まずさを完全に忘れたわけでもなかったが、だからどうということもなかった。今日、一度も目が合っていなかったことにも、今気がついた。 吐いた息は、来たときよりも重くなった。 唐突なキャンペーンの効果が出始めたのは約十日後、三月の中旬だった。お喋りな除霊マッサージ常連客がちょうど現れ、口コミでまとまって予約が入った。しかも、あと半月の間に三回来ようと全員が意気込んでいる。霊幻に勝ち誇った顔で予約スケジュールを見せられ、なんとも複雑な気持ちになった。 ――だからコイツ、なんでこの商売やってんだ。 いくらでも他のことができるだろう。以前聞いたが、返ってきた答えは今一つはっきりしなかった。しかしそれは別に構わない。理由が明確だろうとそうでなかろうと、本人がそれを選んでいるならそれでいい。 それより気になるのは、狙い通りなのだろう予約数である。 三回やって一回無料。以前より本物が増えたとはいえ、半分以上は霊障とは無関係だ。今回のキャンペーンに惹かれてくる客はマッサージが目的である。マッサージは霊幻しかできない。施術をし、接客をし、本物が来れば実際に除霊をするシゲオや芹沢と同行し、終われば労う。その合間に事務処理をし、おまけのマッサージオイルを小瓶に詰めるという内職をする。 自分にも除霊担当は回ってくる。主に、深夜である場合、シゲオの教育によろしくない場合、芹沢の都合が悪い場合だ。前者は特に、芳しくない依頼内容が多い。 ともかく、霊幻不在で済む依頼はない。内職など受験が終わった弟子や部下に頼めばいいものを、一人の時間をそれに充てる。個人事業主であればそんなものだろうが、直前にあんな会話をしたこともあって、黙って眺めているのは据わりが悪かった。 だが、詰めすぎじゃねえかと言ったところで、稼ぎ時なんだよ、と返されて終わる。依頼終了後の霊幻のあとを数回ついていったが、酒を飲みにも行かない。コンビニや二十四時間営業の弁当屋に寄って帰るだけだ。二人で除霊に赴いたあとも、お疲れさん、と手を振って別れるが、間違っても自分を飯や飲みになど誘わない。 見えないくらい薄く、でも間違いなく意識が張り巡らされている。その話はするな、と全身から発している。自分を隔てる透明な膜は、日を追うごとに厚い殻になっていく。 しかしその日、霊幻の機嫌は良かった。こつこつ築いている殻もその日だけは薄くなった。 シゲオが高校受験に合格したのである。 もちろん自分も嬉しかった。あの能力をこれっぽっちも使わず、決して器用ではない子供が努力して、努力を続けて合格したのだ。すげえじゃねえか、と肩をばんばん叩いたら、へへ、と笑った。照れくささと嬉しさがそのまま素直に伝わってきた。お前はいい男になる、絶対だ。また心の中で保証した。 とりあえずその場で週末の焼肉が決定した。霊幻は相談所のメンバー全員で、のつもりだったようだが、ここは師弟二人でどうですか、と芹沢たちに言われ、突然の感慨に涙目になりそうなところで、エクボもおいでよ、とシゲオが言った。反応に迷ったが自分が返事をするより先に、その姿なら勘定変わらねえからいいぞ、と霊幻もからかう口調で言った。本物とも、作り物とも、判断しかねる笑顔だった。 ――さっきまでは、間違いなく全部本物の顔だったんだがなあ。 驚いた顔も、笑顔も、涙目も、全部。 ついこの間までは、自分にも向けられていた。作らないで済むようにしてやりたいと思ったのだ、多分。あの日、虚勢を張り忘れた顔を見て。 影山茂夫がいる限り、霊幻という男は大丈夫だろう。たとえ会う頻度が減っても、遠くに離れても、その存在が霊幻の心に血を通わせる。焦りや寂しさも、シゲオへの情があってこそのものだ。 この男に本当に必要なのは自分ではない。その事実は、微かな寂しさより遥かに安心をもたらした。 それに気付いたときじわりと、思念の塊である霊体に新しい感情が滲んだ。ようやく自覚しただけなのかもしれない。 かわいい、に付随するのは庇護欲だけではない。子供のように感じるからかわいいと思うのではない。 なんてこった、と自分で自分に呆れた。考えた結果、より抜け出せなくなるとは。 ――腹を括るしかねえなあ。 自分の欲望に忠実なのが、死んでも生きている悪霊の本分だ。しかし、エクボにとってのかわいい男と、同じくかわいい子供がロースだカルビだと言っているのを聞くと、どうにも本分が疎かになる。 逃げ道だけは残しておいてやるか、と思いながら、焼き肉について語る男の声を聞いていた。 ◇ そして金曜夜。合格祝いの焼肉後、影山家の表札前でシゲオに手を振った自分は、思いきり隣から警戒の目を向けられていた。 「……何でお前がこっちに残んだよ」 「……まあ何だ、お前と話そうと思ってな」 警戒の眼差しがさらに強くなる。それはそうだ、自分がここで持ち出す話など、この男が全力で拒んでいる話以外にない。 「モブに何か言われたのか」 「言われたからってわけじゃねえ」 確かに、言われたのは事実だった。焼肉屋で、霊幻が席を外した数分の間だった。 『師匠が、エクボとの喧嘩は終わったから気にするなって言ってたんだけど』 唐突に言われ、黙って目を瞠った。 ――聞いたのかよ……。つうか何て聞いたんだ。 子供は恐ろしい。だが助かる。何せ霊幻がはりねずみの如きガードを涼しい顔で張り続けているので、様子も窺えないでいた。 キムチの層を薄くめくりながらシゲオが問う。 『本当に終わったの?』 『……臍曲げてんのは俺様じゃねえよ』 『師匠も曲げてるようには見えないけど』 よく見てんじゃねえか、と感心し、それもそうかと納得する。相談所のメンバーでもっとも霊幻と長くいるのはこの弟子なのだ。 『あんなに働いてる師匠初めて見た。元気そうだけど……、でも』 キムチを咀嚼し、少し間を置いて、矛盾することを言う。 『二人が元気ないのは嫌だな……』 『……俺様に言うなよ』 『だって、師匠は呼ばない』 『……?』 『普段は簡単に呼び出すのに、呼ばないって決めたら呼ばないんだ。きっと……すごく困ってても』 じっと、大きな目が自分を見つめた。無表情で訴えられ、思い出してもあまり楽しくないことを思い出す。 ――そういや、そうだな。 あのときでさえ、シゲオの携帯は一度も震えなかった。呼び出せば話くらいできただろう弟子に電話もかけず、すべて自己完結して諦めて、直接言ってやれば喜ぶだろう言葉さえ、見ているかどうかも分からないカメラに向かって話しかけた。 そういう男だから、様子などいくら窺っていてもまったく意味はないのだ。あの男は一人で、手放す努力だけをしている。 はああとため息をつくと、ふふ、とシゲオが笑った。 『ありがとう』 『何がだよ』 『僕が行けない間、師匠と仲良くしてくれて』 『……喧嘩しちまったぞ』 『でもずっと師匠のこと気にしてた』 『……』 だんだん気恥ずかしくなってきた自分に、師匠も仲直りしたいんだと思うよ、とかわいい子供は励ましの一言までくれた。だからもう、待ちの姿勢はやめたのだ。 「とりあえず帰るぞ」 「は?」 「ここで話してたらお前が不審者で通報されるだろ」 「……だから、話すことなんか」 「俺様にはあるんだよ。ここで話されてえなら話すが」 言うと、苦々しく顔を顰めた霊幻は影山宅に背を向けて歩き始めた。追い払う動きも、目で確認することもしないということは、ついていっていいのだろう。 人のまばらな夜道を、コートのポケットに両手を突っ込み、黙って歩く。もう息が白くなる季節ではないから、ため息の一つも吐いたかどうかも分からない。まっすぐ伸びたうなじの襟足は、いつも通り整えられている。 『呼ばないって決めたら、呼ばないんだ』 助けが必要でも、誰かの手がほしくても、たった一言、視線を一瞬投げかけることもしない。 それでも、一人になっても立ち続けるから人は気付かない。気付くのは、この男の内側に触れたことのある僅かな人間だけだろう。 ――でもその貴重な奴らが、お前の周りにはいるんだぜ。 アパートの玄関前に立ち、鍵を差す直前、ぎゅ、と指先に力が籠もった。無表情はさらに無へ近づいていく。この早とちり野郎め、と頭をかき回してやりたい。でもそれは、自分一人で納得して満足していたのではもう、意味がない。 部屋の明かりをつけると、霊幻はコートだけを脱いで椅子にかけた。広くはない部屋のつくりはもうよく知っているはずなのに、なんだか新鮮だった。よく考えると、霊体で入るのは久しぶりだ。 「で、何を話そうって?」 立ったまま腕を組み、霊幻はこちらを向いた。 「師匠と仲直りしろって言われたか」 「……喧嘩は終わったんだろ。したつもりはねえが」 「だよな。喧嘩もしてねえ、別に険悪でもねえ。お前に何か不都合があるか?」 「ある」 なんだよ、と目で促す視線もこの口調も、思いきり喧嘩腰だろうと思うが、感情を殺されるよりマシだった。 「お前が笑わねえ」 答えを聞いた霊幻は両手を腰に当て、大仰に身体を折って笑う振りをした。 「……何だそりゃ。俺は笑ってるし、笑わなかったとしても、だから何だよ」 「喧嘩もしてねえが、お前がびびってんのは嫌だ」 「ああ? 誰が、」 「俺様は、お前とやるのが嫌になったとは一言も言ってねえぞ」 遮って言えば、凄んだ声で反論のために開いた口は僅かに震えた。すい、と視線を逸らす。 「……誰もそんなこと気にしてねえよ」 「俺様もお前も、考えた方がいいっつっただけだ」 「だから、気にしてねえって」 「なら俺様と目も合わさねえで滅多やたらと働いてんのはなんでだ」 「……」 言うな触れるなと頑なに守っていたところに、手を突っ込んでいる。分かっている。勘違いでも早とちりでも、この男の胸には傷がついていて、そこから血が流れていることも。 苛立った気配は無言のうちに治り、凪いだように静かになった。霊幻がぽつりと、声を発する。 「…………聞いて、どうすんだ」 「……どう……?」 「無理して気にしないことにしてる俺がかわいそうだから、また抱いてくれんのか。さして面白くもねえくせに」 「そうじゃねえって何遍言ったら分かんだテメエは」 頑ななのもいい加減にしろ、と睨みかけた。――が。 「分かんねえよ」 返ってきた声の心許なさにぎくりとした。 それが、隠したかったものの正体じゃないのか。 あの日焦った勢いで、しばらくしないと言ったことは、この男にとってただやらなくなった以上のことだったんじゃないのか。 「……だってお前、後悔したんだろ」 責める声でも、怒る声でもなかった。透明な、ただ事実を確認するだけの声だ。 ――分からない、んじゃねえ。 分からなくなったのだ。分かりかけたのに、途中で手を放したと思わせたからだ。 「……悪かった」 謝ると、いや? と霊幻がやけに静かな声で返す。 「よくある話だ、気にすんなよ。……じゃあ、これで終わったろ、話」 「おい?」 「俺は散歩でもしてくるから、お前も適当に帰れよ」 「終わってねえ、霊幻」 スタスタと玄関に向かい、靴につま先を入れる。呼んでも振り向かない。周囲を飛んでも目を向けない。 ――ああ、クソ。 この身体では引き止められない。こうやってちまちま消費するから霊素が貯まらねえんだ畜生、と思うがそれ以外の方法はない。身体の端から端まで力を走らせ、掴んで一周させてもまだ余る手で腕を掴む。 「待て、ってんだ」 「……」 霊幻の動きがぴたりと止まった。掴んでる手を見、え、という顔で振り返る。分かりやすく驚いた顔で目を見開き、ぱちぱちと瞬きをし、頬へ視線をやった。 「……お前、エクボ?」 「おう」 「……え……? なに、それも霊体……?」 「霊体は霊体だが、フルパワーの姿だ。だからお前さんにも触れる」 答えると霊幻はぽかんとしたまま、フルパワー、と繰り返した。 「……お前って、変身できたのか」 「変身……まあ、変身だな。つうかお前、この姿の俺様に何か思うことはねえのか」 「でかい」 「……フルパワーだからな」 小学生か、という感想だ。弟子の方は即座に悪霊と見なして反応を変えたというのに。やはりこの男にはまともな能力者がついていないとだめだ。 「なあ、俺も触りてえんだけど」 「あ? いいけどよ、」 言い終わる前からぺた、と手のひらで胸や肩を触り始めた。固いけど固くないとか、ちょっと冷たいとか、今度は指先で浮いた筋などをつついている。 ――怖いもの知らずっつうか……。 爪の支部で初めて姿を見せたときもまず触ろうとした。普段は冷めきった顔をしているのに時折こう、子供のような反応を見せる。 「すげえな……、なんで普段あの姿なんだ?」 「こっちは霊素使うからな、普段はならねえ」 「今はなっていいのか」 「お前が逃げんの阻止するためには仕方ねえ」 言うと、一拍遅れてはっ、と目を開いた。これまでの状況を思い出したらしい。気まずそうに口を引き結ぶ。頭は悪くないんだがなあ、と目線の下にあるそれを撫でてやりたくなるが、まだ我慢だ。また分厚い殻に閉じ籠もられたら困る。 「霊素は使うし、お前にびびられるかもしれねえ。でも引き止めた。その理由くらいは分かるだろ」 「……分かるかよ」 「悪霊に告白なんかされたくねえだろ。分かったって言わなくていいから分かれ」 「……めちゃくちゃだなオイ……。ていうか、あー……」 拳を額に当て、言い淀んでいるが、逃げる気配はもうない。この姿になった甲斐はあった。んん、と咳払いをして、霊幻が言う。 「つまり、俺とすんのが嫌になったんじゃねえってことか」 ひく、と頬が引きつった。爪が当たらないよう手首を返しながら、両耳を引っ張って耳たぶをつまむ。 「い、いてえ!」 「お前は少し人の話を聞け。そうじゃねえって言ったろうが」 「そんなん別れ話の常套句だろ!……付き合っちゃいねえけど」 「だから考えろっつったんだ。いいか、お前がしてもいいっつってんのは、こういう相手だぞ」 頭など一掴みにできる手のひらで、両頬を挟んだ。身体の大きさも、肌も、組織のつくりも、何もかもが違う。この身体が常時あるわけでもない。 「この世にいないやつとやってんのと同じだ」 「……」 「お前の時間には限りがあるんだよ。俺様に割いてる暇はねえんだ、本当は、」 本当は、自分が手を出すべきではなかった。この男が強いだけではないと知っていながら。でも出してしまったし、情も移ってしまった。拒まれない限り、自分はこれを手放さない。 微かに傷ついた色を浮かべた霊幻はしかし、正面から合わせた目を離さなかった。よく喋る男だが、沈黙にも強いのかもしれない。しばらく自分をじっと見つめたあと、たとえば、と口を開いた。それはよく耳にする、霊とか相談所所長・霊幻新隆の声だった。 「俺とお前がお互い生きているときに出会って、俺が生きてる間にお前が死んだとする。俺はお前のことを死ぬ前から好きで、死んでからも好きだとする。この俺の行動、つうか感情は否定されるべきものか?」 「……否定はしねえ。が、今の俺様とお前は状況が違う」 「それなら少し時間をずらそう。お前の死後、俺はお前の存在を何かで知ったとする。お前の生き方に惚れ込んで、生涯他の奴に目が向かなかった。これは?」 「それは……お前の自由だけどよ」 ふむ、と霊幻が頷く。旗色が悪くなる予感がするが、聞くことを拒むのは負けの肯定だ。 「もう一つ。俺がたとえば、お前に優しくされてうっかり好きになっちまったとして、いいか、あくまでたとえだぞ。お前に何も言わねえで延々好きでいるとする。このことを知らないお前は、これを正そうとはしない。当然だ、知らないんだからな」 「……やめろ、気になって眠れねえ」 お前寝ないだろ、寝てえときは寝るんだ、というやりとりを挟み、話が続く。 「まとめると、死んだやつを好きでいることは俺の自由だし、お前がどうにかできる話じゃないってことだ。若干違うのは、俺にはお前が見えて、お前は間違いなくここに存在してるってことだけなんだが、これはむしろ条件としてはプラスだろ」 「……もう一つ違う」 「何だよ」 「俺様は悪霊だ」 きょと、と霊幻は目を開いたがすぐに口の端を上げ、にい、と笑った。瞳がきらりと輝く。 「残念だが俺には違いが分からん。何せ無能力者だからな」 「……」 今日何度目かの盛大なため息を吐き、しゅる、と力を解いていつもの霊体に戻る。同じ目の高さに浮かぶと、霊幻がまた指で霊体の端を揺らす。 「こういうときばっかり開き直りやがって」 「生憎だが普段から開き直ってる。つーか、俺はお前のそのささやかな悩みのために死ぬほどへこんだのか」 「ささやかじゃねえんだよ普通は。死ぬほどへこんだのはお前の早とちりだ」 「お前の言い方が百パー悪い。あーくそ、無駄に働いちまったじゃねえか」 「無駄じゃあねえだろ」 ほてほてと歩いてベッドへ向かう霊幻のあとをついていき、スーツのままうつ伏せに倒れ込んだ男の頭に手を乗せる。見えていないから気付かないだろう。 「皺になるぞ」 「三十秒後に起こしてくれ」 「なら今起きろよ……」 言うと、シーツに埋めていた顔を傾けた。それから真上に顔を向けようと身体を捻る。これは自分を探しているのかと視線の先に移動してやれば、もそ、と手を伸ばしてきた。また指先で霊体の端を擽る。 「……さわれた方がいいか?」 「……どっちでもいい。さっき触ったしな」 いるのが分かればいい、と欠伸をしながら言って、すこんと眠ってしまった。 「…………ここで寝るのかよ」 いつからの三十秒をカウントするべきなんだ。そもそも起こすべきか否か。 どうせだから髪を枕に一眠りするか……、と頭上を陣取り、毛先に触れる。手の大きさは何十分の一だが、使ったはずの霊素は思ったより減っていない――気がする。 『俺にはお前が見えて、お前は間違いなくここに存在してる』 ――何の気なしに、すごいことを言ってくれる。 無能力者ってのは怖えなあ、と苦笑し、目を閉じた。 >>『反射光』へ |