ねずみの霊幻さんと猫エクボ2

 朝食後、目を閉じて寝そべっている自分の横を、微かな足音が通り過ぎて行った。いつものねずみだ。片目を開けると、台所棚の取っ手を足がかりに、ねずみはシンク横の作業台に登っていた。珍しいことだ。このねずみはまずテーブルには登らないし、台所周辺を歩いても作業スペースには踏み入れない。
「うっし、これはセーフだな」
「テーブルじゃねえからか?」
 起きていることは想定済みだったのだろう、ねずみはこちらを見下ろすと、分かってねえなあと肩を竦めた。それから両手で、落ちていたコーンフレークを一枚拾い上げる。ちょっとしたでかいせんべいを持っているみたいだ。
「これはあとで食おうとして取ってあるもんじゃないだろ」
「なるほどな」
 理解して返せば、そういうことだ、と頷いた。日差しの当たるシンクの端に腰をかけ、ねずみは楕円形のそれに歯を立てた。黄金色のフレークが歯型の形に欠ける。ねずみの足が揺れる。満足そうだ。
『俺は家ねずみとして、人間が人間のために保存してある食糧には手をつけない』
 以前、スーパーの袋に入れたまま床に置きっぱなしだったりんごの横を素通りしたねずみに聞いたことがあった。食わねえのかと。エクボの問いに、ねずみはそう返した。
『家ねずみってのはな、人間の家の隙間を借りて暮らしてんだ。雨風が凌げるってのはでかいんだぞ。そこは弁えねえとだろ』
『他のねずみはそんなこと考えちゃいねえようだが』
『そう! そこが俺の、世紀の天才・家ねずみたる所以だ。だから俺は一度も本気で追い払われたことがない』
 言う通り、現に今もシゲオから目こぼしされている。不器用なりに一人暮らしを頑張っている友達に何か迷惑がかかるなら、自分がとっくに丸呑みだ。

「む?」
「んあ?」
 コーンフレークをご満悦に食していたねずみは、急に窓際へ顔を向けた。
「あそこにあっちゃなんねえモンがある」
「あそこ?」
「窓枠のとこだよ」
 顎で指すと、コーンフレークを両手で抱えたままねずみはシンクから飛び降りた。壁伝いに移動するところを見ると、好ましくないものがあるのかもしれない。
 エクボが重い腰を上げるとねずみは少し移動し、冷蔵庫の足元までちょろりと下がった。同じ空間でカリポリやっている緊張感のない仲であるが、お互い一定の距離は保っている。ねずみにとって猫は天敵であるし、エクボも目の前でちょろちょろされると好き嫌いを問わず狩の本能が刺激されるからだ。
「見えねえな、何だ? 虫か?」
「げっ、ちげーよ馬鹿! ちゃんと見ろちゃんと!」
「めんどくせえな……」
 とん、と飛んで台所に乗り上がれば、確かに日の当たる窓の真下にそれは落ちていた。銀紙に包まれた、厚みのある三角だ。
「チーズじゃねえか」
 シゲオが朝食べようとして忘れたのだろう。または歩きながら食べようとしたのかもしれない。何にしろ騒ぐほどのものではない。
「なっ、馬鹿お前、チーズだぞ?! いいから日陰に移動させろ!」
 早く、早く、と冷蔵庫の下で跳ねながら言うねずみはつまり、好物の心配をしていたらしい。
「移動ってもなあ」
「爪で穴開けんなよ!ったくちゃんと涼しいとこにしまえって言っ……」
「あ、行きすぎた」
「あー!」
 日光を避ける場所まで押したつもりが、思いのほか滑りが良かったらしい。アルミに包まれたそれはキッチンを越え、ぽとりと床に落ちてしまった。もったいねー!と下ではねずみが騒いでいる。何故か遠巻きに。
 ――何で離れてんだ?
 好物であるはずなのに発見してからすぐ距離を取ったし、今も近付かない。
 エクボがシンクから降りるとねずみは一瞬反応したが、チーズが気になるのかそれ以上離れようとはしなかった。三角の銀色を挟んでねずみと向き合う。
「落ちちまったな」
「……ひ、拾えよ……」
 ぱたん、ぱたん、とねずみの尻尾が床を叩く。目はもうチーズに釘付けだ。
「俺様の手は拾うには向かねえ」
「あの子供のチーズだろ……」
「床に落ちたけどな」
「そうだよな! ……っいや、いやいや違う、これは落ちたって」
 そうだよなァ、食えるよなァとねずみの心を代弁してやる。チーズよりもねずみを見ている方が百倍面白い。尻尾と同じくぐらんぐらんに揺れている。人間の食糧には手をつけない、という信念との葛藤である。
「ま、俺様にお前さんの言うこと聞かなきゃいけねえ義理はねえんだ、俺様は昼寝するから好きにしな」
「え」
 言って、床に顔をつけて寝そべった。ねずみの気配は動かない。チーズが動かされる気配もない。
 そのまま数分経った頃か、微かな微かな、人の耳では聞き取れない足音が鼓膜に伝わった。薄く片目を開けると、未だ葛藤のど真ん中にいるねずみが、一歩チーズに近づいているところだった。尻尾が身体に巻きつき、いつも塩を握る手はただ固く握り締められているだけだ。じり、とまた一歩近付く。
 ――じれってえ……。
 落ちたもんは落ちたんだ、食うなり持って帰るなりすればいい。信念もいいかもしれないが、それは落ちてしまったチーズ、と言い訳が立つチーズだ。そこまで我慢する必要はないだろう。
「うぎゃっ」
 床に伸ばしていた前脚を素早く動かし、ねずみの身体をチーズに押し付ける。いつもなら片手など一瞬ですり抜けていくのに、動揺のせいでばたばた暴れるだけだ。それもチーズを傷つけないようにしているから、本気の動きではない。当然ながら塩も撒けない。
「ははっ、欲に負けたなァ? 世紀の家ねずみさんよお」
「きったねえぞ! チーズを罠に俺を食う気だったんだな!」
「食う気はねえが罠っちゃ罠だな」
「お前ちゃんとメシもらってるだろ! 欲が深えと碌な目に」
「化け猫にゃあんま関係ねえな」
「くそ、俺ばかりでなくチーズまで……いいかチーズには種類があってな、中でもろくぴーチーズってのは……ぎゃー! 押し付けんな! チーズが、つぶれ、……」
「ここにきてチーズの心配か?……って、おい?」
 控えめながらも暴れていたねずみの動きが、急に大人しくなった。しまった力を入れすぎたか、と押し付けた手を浮かせると、する、と線のような尻尾が隙間から伸びてきた。もしや弱った演技かと思ったが、ねずみはチーズにぺっそりと寄りかかったままだ。
「……オイ、どうした、どっか痛えか」
「……すげえ」
「……『すげえ』?」
「……いーにおいがする……」
 尾の先でふさふさと胴体を揺らしてみたがねずみは逃げも嫌がりもしない。いつもは回りすぎる口も回転速度が落ちている。というか、今にも眠りそうだ。
「……オイ、ねずみお前、もしかして」
「チーズ、おれ、ひさびさに、においかいだ、」
 へへ、と幸せそうに笑うねずみに、エクボは嘘だろ、と固まった。天敵を前に、ご馳走を前に。
 ――酔っ払ってやがる。
「せめて食ってから酔えよ……」
 大体チーズは銀紙に包まれているのに一体何の匂いで酔ったというのか。
「おお……? 寝床もふかふかだな……?」
「俺様のことじゃねえだろうな……?! 塩、おい塩自分にぶっかけろ」
「しお……」
 よしきた、と呟いたねずみは手を握った。そして握ったまま、すう、とエクボの尻尾に倒れて眠り始める。小さいねずみの身体は、長いブラウンの毛の中に完全に埋もれた。
「嘘だろ……」
 今度は声に出して呆然とした。百年以上生きているが、塩を撒くねずみも、完全包装のチーズに酔っ払うねずみも、自分の毛皮で熟睡するねずみも見たことがない。
 このねずみとチーズはどうしたらいいのだ。両方落ちているのだから、食べればいいのか。考えるだけで消化に悪そうだ。
 巣穴に返そうにも手は入らないしチーズも入らない。お手上げだ。エクボはねずみ入りの尻尾に身を寄せ丸くなり、やむなくそのまま目を閉じた。
 ふて寝などいつ以来のことだか、思い出せもしない。





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