ねずみの霊幻さんと猫エクボ3

「チーズはっ!?」
「うおっ」
「?!」
 己の尻尾からねずみが声とともに飛び上がり、眠っていたエクボはびくっと身体を弾ませた。そのはずみでバランスを崩したねずみが尾の上から床に転げ出る。しかし一回転ののち難なく起き上がると辺りを見回し、視線の先に好物の三角を見つけた。丸い耳がぴんと張る。
「涼しいとこに置けっつーから、よけておいたぞ」
 ねずみとともにエクボの尾の中に置いておいたらさすがに溶ける。今度はちゃんと加減をして、椅子の影に滑り込ませた。
 不思議そうにチーズを見つめ、次にエクボをちらりと見遣ったねずみは、ようやく事態を把握したらしい。口を引き結び、視線を忙しなく泳がせたあと、急にびし、と人差し指をエクボへ向けた。
「これはだな、お前が俺の寝たふりに気付くかどうかを」
「ほー? それで俺様の尻尾によだれを」
「あ〜それは雨漏りだな! 最近雨が多くて参っちまうよなぁ? ったくハハハ」
「垂れてはねえけど」
「……」
 はたはたと尾を振ると、ねずみは恨めしげにこちらを睨んだ。しかし何も言い返すことなく、んん、と咳払いをすると、きりっと引き締まった顔で片手を上げる。
「じゃっ、邪魔したな!」
 すたた、と靴下を履いた足がフローリングを駆けていく。チーズの元には寄らず、壁の穴へ一直線だ。
「チーズ持ってかねえのか」
 声をかけるとねずみは立ち止まり、振り返った。やや口は尖っていたが、迷いなく答える。
「持ってかねえ」
「なんでだ? シゲオはもう忘れてるぞ」
「言い訳しなきゃ食えないもんは食わねえ」
 ま、俺には蓄えが山ほどあるしな、と両肩を上げる。
「なら俺様が食っちまうが」
「…………ん?」
 肩を竦めた姿勢のまま、ねずみの動きがびたっと止まった。
「……猫ってチーズ食うっけ?」
「食わねえが、気が向きゃ食うぜ」
「……チーズを?」
「チーズを」
「……俺が我慢してんのに?」
「おうよ。あれくらい一口だな」
 立ち上がりチーズの元へ向かえば、ねずみが待った! と足元に回り込んできた。両腕を上げたので塩かと警戒したが、右手の指を三本、左手の指を二本上げている。
「三対二でどうだ。身体のデカさを勘案してお前が三」
「……そりゃチーズの配分か?」
「そうだ」
 身体の大きさで決めるなら五対一だろう。しかしここを引き延ばすと、やっぱりいらねえ、と痩せ我慢するのが目に見える。まあいいぜ、と答えると、よし! とチーズの元へ飛んでいき、それから何事か、ハッ、と深刻な顔でエクボを見た。
「折り入って頼みがある」
「……何だ」
 チーズ絡みの、まったく大したことじゃないに違いない。しかし天敵の前で腹を出して寝る奴である。いまいち読めない以上安易に頷けない。
 とりあえずは聞いてみるかと待っていると、ねずみはひっくり返ったチーズの包装から、ぺろっと出ている赤いフィルムを指差した。
「……赤いやつ、俺にめくらせてほしい」
 しばし黙ったのち、エクボは目を瞑った。
 ――好きなだけめくれ。
 断りなんざいらねえ。まず俺様の手はそんな細いモン引っ張れねえ。ヒモになってからのがご執心だ。存分にめくれ。
 胸に何かが込み上げてきたがそれを堪え、エクボは真面目に頷いた。
「構わねえ」
 言うとねずみは目をきらきらと輝かせた。食っていいと言ったときより輝いている。
 ねずみはエクボがきちんとチーズの目の前まで来るのを待ち、それからフィルムに手を伸ばした。めくっている間にまた幻の香りで酔ったらと気が気ではなかったが、昂揚により頬を赤らめていたものの、片手でチーズ本体を押さえ、三角形の端まで丁寧にフィルムを引き終えた。銀紙の間からチーズが顔を出す。
 感動に打ち震えるねずみに早く食えと言うと、そうだな! とせっせと銀紙を外しだした。今度は真剣に、三対二のラインを見極めようとしている。チーズへの思いが強すぎてゴールが遠い。
「おい、いいから先に好きなだけ食え」
「え……いいのか?」
「おう」
 チーズが開封された今、いつ途中で昏睡するか分かったものじゃない。またこのやり取りを一からかと思うと、問答無用でねずみの口にチーズを入れてしまいたくなる。
 ねずみは儚い壊れものに触れるようにして、チーズにそっと歯を立てた。開けた口はねずみにしては大きかったが、三角の先端が欠けただけだ。口の周りに欠片をつけて、耳を小さく跳ねさせながら、全身で味わっている。このねずみ以上にうまそうに食べる奴はいないんじゃないだろうか。

「俺、チーズ好きなんだけどさ、やや匂いに弱いところがあってな」
 三口ほど食べたところで、ねずみは言った。
「……おう」
 あえて突っ込むまい、とエクボは相槌を打った。
「開けてる途中で満足しちまうっつーか、まあ、それはごく稀になんだが」
 酔って寝てしまったことは過去にもあるのだろう。要領の悪くないこのねずみがここまでお宝扱いをするということは、失敗も少なくないのかもしれない。
 だから、とほんのり笑いながらねずみが続ける。今度は正しく、チーズの味と匂いを堪能した結果の、血色の良い頬で。
「開けたてのチーズ、ゆっくり食うの初めてかもしんねえ」
 ほろ酔いのねずみはいつもより素直らしい。倒れることに備えてエクボが背後に尻尾を寝かせているのを見、お前の尻尾ふかふかでいいな、などと洩らす。
「寝たって構わねえが、俺様に食われても知らねえぞ」
「大人しく食われてやりゃしねえよ」
 へへ、と瞬きの増えた目で笑う。こんなねずみ一呑みだ。尻尾で巻いたら今すぐ寝るだろう。とっととたらふく食べるがいい。
 ねずみは酔い潰れることなくチーズを半分食べきった。もう食えない、と腹をさすりご満悦だ。これで今日はもう平穏だろう。
 と思ったそのとき、玄関の鍵ががちゃりと鳴った。四つの耳が同時に立ち上がる。
「シゲオにしちゃ早えな。かーちゃんか」
「おい、まずいことになった」
「あ?」
 今度は何だと斜め下を見ると、ねずみは四つん這いの体勢でぶるぶると震えていた。明らかに様子がおかしい。しかし腹を壊したのか人間が怖いのか、というささやかな心配は秒で裏切られる。
「腹一杯過ぎて立てねえ」
「――はあ? 知るかその辺で寝てろ」
「人間の前に出たら退治されるだろ!」
「しねーよ多分」
「いいから俺のこと穴まで押してくれ」
「お前な、飼い猫をなんだと思って」
「一緒にチーズ食った仲だろ?!」
「俺様まだ食ってねえ」
 そうこうするうち扉が開き、そして閉まる音がした。ねずみが輪をかけて騒ぎだす。
「お前は俺が捕まってやつざきになってもいいっていうのか? そしたら化けて出てやるからな! 化け猫対化けねずみっつー世紀の大バトルがこの家で」
「あーもーうるせえなてめえは」
 口からチーズ出ねえように押さえとけ、と言うとねずみは一瞬疑問符を浮かべたが、言われた通り両手で口を覆った。それを丸めた手で押すといい具合に転がった。なんだ押すより早えな、と続けると、転がすな! とねずみは手の隙間から喚いたが、自然と転がったのだから仕方ない。
 チーズ分重くなったねずみを壁の中へ押し込み、穴を塞ぐようにその場に座る。
 入れ替わりのように、シゲオの母親が差し入れを持って入ってきた。