( にかけるに ) 2×2 [ 6 ] |
「ええっ!!」 社内での昼食後、席に戻った黄瀬は通知された十二月のフライト表を見て声を上げた。前後左右から視線が集まり、引きつった笑いで誤魔化しながら廊下へ出る。午後の始業前で助かった。 廊下の突き当たりにある階段の踊り場に身を潜め、深呼吸してもう一度紙に向き合う。何度見ても、どんなに見ても、入っていないはずの日に乗務予定が入っている。 十二月二十四日 深夜発 十二月二十五日 夜帰着 (バツにしたじゃん!どうしても外せない黄瀬家の法事があるからって休暇届けまで出したのに!) その前後何日かに渡って国外に行けというなら何とか諦めもつくが、クリスマスという行事の最も重要な時間帯のみを抑えているのがひどい。 咄嗟に携帯に手を伸ばし、黒子に電話をかけようとしたけれど、この時間の彼は怒濤の勤務中だ。黄瀬は携帯を力なく握ったまましゃがみ込み、膝に突っ伏した。しばし悲しみに打ちひしがれる。クリスマスは日本にいると黒子に言ってあったし、黒子だってクリスマスツリーを選んでくれたというのに。 半同棲――と今の現状を黄瀬はそう呼んでいる――初のクリスマスだ。初めてお互い実家でなく、誰の目も気にせず、理由も作ることなく、クリスマスという理由だけで一緒に過ごせるはずだったのだ。 (ぜってー二十五日中に帰ってくるけど!つーかクリスマスイブ繰り上げて二十三からにするっス!!) 今年は二十四日も二十五日も平日だから、日中は黒子の仕事がある。二十四日の出発ぎりぎりまでクリスマスを楽しむ、というわけにはいかない。 薄暗い廊下の隅で、携帯のディスプレイを灯す。黄瀬は仕方なく立上がった。あと二分で始業時間だ。 (昼休みに……電話しよ) この昼休み、は黒子の昼休みだ。黄瀬はパイロットだが、フライトがない日は普通の会社員と似たようなもので、昼休みは十二時から一時。一方の黒子にとっては子供たちの食事の時間帯だから、休憩時間はかぶらない。 昼食後のざわめきも消え、午後の仕事にそれぞれが集中し始めた頃、黄瀬は何食わぬ顔で席を立った。エレベーターを降りて外に出、会社の敷地の隅まで行って携帯を取る。数コールで聞こえてきた黒子の声に泣きついた。 「黒子っち〜、大変悲しいお知らせっス!」 『は、黄瀬君もですか?』 「え?」 今まさに悲報を受けていたところ――そんな速さで答えが返ってきた。声まで珍しく、いくらか困惑しているようだ。 「何?黒子っちも何かあった?」 『あ、いえ、ボク自身はそれほどでもないというか……』 「そうなの?黒子っちじゃないなら一応安心スけど」 『ええと、ただ、あながち無関係では』 (……あ) この展開はあれだ。あいつだ。 りょうた君プラス、黒子っちにとってそこそこ大変なことと言えば。 「まさか黒子っち!あのちっこいのにプロポーズでもされ――」 『るわけないです、何ですかその発想』 ほう、と社屋の裏側で一人息をついた。壁に寄りかかり、空を見上げる。今日も気持ち良く晴れているけれど、もう吸い込まれるような高さはない。十二月を前に、気温は急に下がり冬らしくなった。 「そんなら良かったっス……。でも何があったんスか」 『そこで本気で安心するキミのが心配ですけど……まあ、状況は帰ったら話します。あ、今日は遅くなりそうなんで明日にでも』 「あれ、今日定時だったっスよね?」 『そうなんですけど、延びる気がします』 あんのちびっ子め……、と思いつつ、黄瀬は恐る恐る、限りなく控えめに聞いてみた。 「…………迎え行ったら怒る?」 そんな状況に加え残業などして帰ってきた日には、彼は玄関からベッドに直行しかねない。これまで種々の理由で力尽き、ベッドに倒れ伏している黒子を見てきた黄瀬にはそれが気にかかって仕方が無い。 『……怒りませんよ、というか今日に限ってはありがたいです。でもキミも何かあったんでしょう。電話してくるほど』 「あ」 今の今まで忘れていたことを思い出してしまった。そうだった……とその場でへたり込む。 『……黄瀬君?大丈夫ですか?』 声に促されて、ぱちりと目を開けた。コンクリートの隙間から雑草が顔を出している。黄緑色の細い葉が二枚、元気なものだ。 「大丈夫っス……オレも会ったら話す……」 『じゃあ、何だかよく分からないですけど、お互い夜まで頑張りましょう』 「っスね」 『はい』 大好き。 それは声に出さないで電話を切った。 (大好きなんスよ、黒子っち) 伝わっていると分かっているのに、繰り返し言いたくなるのは何故だろう。 伝わっていないとどこかで思っているのだろうか。それとも、自分がそれを超えて気持ちを膨らませてしまうからだろうか。 (黒子っちはそういうの、ないのかなあ) 二十歳を越え、仕事までしていながら、未だに高校の頃と同じことを思っている。あの頃より不安はないから、本気になって黒子に詰め寄ったりはしない。けれど、彼のことをもっと分かっていたいと思う延長線上で、そんなことを思う。 夜まで我慢しよ、と黄瀬はもう一度空を見上げた。これでクリスマスに雪でも降ったら、あらゆる意味で恨む。 (……ま、仕方ないっスね) 今までだって、バスケとモデルとそれなりに勉強と、そして黒子の予定とに都合をつけ、何年も付き合ってきた。当日は存分にできなくとも、手前と後でしっかりいちゃいちゃすればいい。 黄瀬の悩みは大抵、黒子の声を聞いただけで、半分くらいは解消される。 ◇ 『園の前に着いたら、拗ねない、妬かない、張り合わない、と三十回唱えてください』 黒子から言われた通り三十回唱え、黄瀬は閉園間近の保育園の脇で車のキーを抜いた。 園内には入ってくれるなと言うので、例によって門の外から中を窺う。夜だと室内の明かりで、こちらからは良く、向こうからは見えないから大変都合が良い。 門から庭を挟んで、保育士たちの部屋と、遊戯室が見える。園児たちはほとんど帰ったようだ。子供の姿といえば体育座りをしている黄色い頭だけで、その隣で同じく膝を抱えている黒子が見える。それ以外には数人の保育士が別室で働いているだけのようだ。 しっかり三つの呪文を唱えた後だったので、黄瀬は拗ねても妬いてもいない。相手が目の前にいないから張り合ってもいない。大体黒子が帰れないという時点で何となく事態の予想はしていたし、目にしたそれはわりあい許容範囲だった。 とはいえ。 (付きっきりっスか) ハーフコートのポケットに手を入れ、その光景を眺める。 小さい黄瀬は水色のクッションを抱え、それに顎を埋めて丸くなっている。どちらがどう話しているのか分からないが、おそらく黒子の方が話しかけているのだろう。基本的に正面を向いたままだが、時折反応を見るように、ちらりと顔を隣に向ける。 相当沈んでいるのか、あれほど黒子の顔を見たがる黄瀬が、ほとんど顔を上げない。たまに首を縦に振ったり横に振ったりするだけだ。 (……黒子っちは、保育士さん向いてるんだろうなあ) 自分ならあんな風に、じっと座って待つなんてことはできない。根気よく、見限らず、腰を据えて向き合っていくなんて、どうしたらできるのだろう。その辺りの感情を育て始めたのが高校頃からだった黄瀬は、ときどき本心から不思議に思ったりする。 「献身的ね」 「っ」 後ろから懐中電灯で照らされ、声をかけられた黄瀬は文字通り飛び上がった。胸を抑え振り返ると、顔に当てられていた丸い明かりが横に逸れる。懐中電灯を手に提げた実渕が、夜闇の中で微笑んでいた。 「……み、実渕さん……めっちゃびっくりしたんスけど……」 「夜間パトロールは大切なのよ。園の中を覗く不審者がたまにいるから」 「う、スマセン……」 「入ったら?もうりょうた君以外いないし、黒子先生に怒られるのも慣れてるでしょ?」 「慣れてても怒られたくはないんス。……つーかあれ、どうしたんスか」 そう言いながら、実渕に促されるまま門をくぐり、玄関へ向かった。室内の黒子はまだ気付いていないようだ。懐中電灯を下駄箱の上に置き、実渕が答える。 「クリスマスに会えるはずだった友達に、会えなくなったんですって」 「……それだけ?」 「あら、身に覚えはないの?」 「……」 学生時代のあれこれまで見透かされているようで、黄瀬は大人しく口を噤んだ。赤司の全て見通す目とは違うけれど、実渕の意味ありげな微笑も厄介なのだ。年季の違う何かを感じる。 黒子とは今でこそ恋人と称する仲であるが、高校までは友達だった。放課後に会えない、週末なのに会えない、クリスマスなのに、とさんざ嘆いていた記憶はしっかり残っている。 小さい方の黄瀬は朝から一日、からっきし元気がなく、それでも他の園児たちが帰るまでは我慢していたらしい。周囲に子供が少なくなり、他の保育士が元気づけようとクリスマスツリーの飾りを持ち出したところで、目を潤ませ始めたという。結果黒子が何とか宥めつつ、事情を訊きだしているらしい。 今はかろうじて泣いていないようだったが、黄瀬・小の目は遠目で見ても分かるくらい赤かった。 (……オレ六歳で、あんなことしてたっけ?) 少なくとも記憶にはない。何かあったとしても、あんな風に誰かに慰めてもらったりしたことは多分ない。いくら似ててもやっぱ違うとこは違うもんスね、と当たり前のことを思いつつ、長丁場の予感に息を吐きかけ――。 あ、と黄瀬は気付いた。 (違う、黒子っちと会うまでは、だ) 駄々をこねるのも、我儘を言うのも、感情を抑えられなくてみっともないのも、全て黒子と出会ってからだ。 (……え?じゃあ) 改めて小さい黄瀬を見る。相変わらず黒子の手を焼かせているけれど、あれがもし自分だったら、もっと独占する。昼だろうと周りに誰がいようと、自分を一番見てくれるように四六時中目を引く努力をする。あんな風に隣に黒子が座ってくれているなら、とっくに腕に抱きつくか、それよりそうだ――あんなに落ち込み続けるはずがない。 ふらり、と黄瀬は前に歩き出した。広い遊戯室に突然長身の影が伸びて、ぎょっとした黒子が顔を上げる。小さい黄瀬も気付き、泣いて膨れたような顔のくせにしっかり睨んできた。 黄瀬はしっかり目の前の子供と目を合わせながら、 「……ちょっ」 ――黒子に抱きついた。 途端、べそをかいて丸まっていた黄瀬が勢い良く立ち上がり、火がついたように怒りだす。 「あー!なにしてんすか!黒子っちせんせーに!」 「だってオレのっスもん」 「黄瀬君――」 「黒子っち先生は――」 「……先生は?」 「……っ」 反射的に言い返そうとした言葉を呑み込み、子供は悔しそうに唇を噛んだ。黄瀬の囲いから抜け出そうと両腕でもがいていた黒子も、抵抗をやめてその様子を見つめる。 大好きな大好きな黒子っち先生は、自分のものじゃない。 それを小さい黄瀬が認めたら、新しい答えが出る。 「りょーた君の黒子っちは、どこにいるんスか?」 丸っこい両手が、セーターの裾を握り締めた。細められた目がそれまで溜まっていた涙で煌々と光る。黒子が絡むと本気で怒り、悔しがる。 しかし次の瞬間。 (あ、やば) 「……っぅ、」 目蓋がぎゅうっと閉ざされ、滲んだ涙が玉を結んで、ほろほろと零れだした。唇の隙間から、唸るような、裏返るような声が絞り出される。腕の中の黒子が、身を乗り出した。 「……くろこっちー…………」 「――っ」 咄嗟に、俯いた頭の上へ手の平を置いた。わしわしわし、ととにかく手を動かす。髪がめちゃくちゃになり、驚いて顔を上げようとするのを無視してまで、とにかく必死で撫でた。まるで自分らしくない、不器用な動きだった。 今絶対、自分の心臓は変な動きをした。 小さい黄瀬が”彼の黒子”の名前を呼んだとき、胸に手を突っ込まれたような衝撃があった。落ちてきた涙は、黄瀬にとって一番「もう味わいたくないもの」だ。あの一瞬、黒子に怒られる、ということも忘れた。 小さい黄瀬は驚いたことで涙が止まったらしい。ぽかんとして見上げてくるのへ、目を反らしたまま早口で捲し立てる。 「悪かったっスほんと悪かったごめん、ていうかごめん」 「……なにが、すか」 別に、この黒子っちはおまえのじゃないと主張したかったのでも、”彼の黒子”が今いないことを思い知らせようなんて思ったわけでもない。もしかしてもう一人黒子がいるのか、と思ったら、確かめたくなっただけなのだ。 しかしそんなことを具に言おうものなら次こそ号泣だろう。自分の寿命が縮む。 「……まあ、ちょっと落ち着いたら教えるっス」 自分の返事に小さい黄瀬は、へんなの、と呟いた。謎を抱えたように、軽く眉間が寄っている。 そこへ、ゆっくりとした動きで黄瀬の愛する指先と、落ち着いた声が降ってきた。 「ね、変な人ですけど、悪い人じゃないでしょう」 ぼさぼさになった髪を指で直され、小さい方は今度は照れて顔を俯けた。大っぴらに泣いて恥ずかしかったのだろう。ぎこちなく誤魔化しながら、涙の跡を拭っている。お互い黒子から目を逸らした先で視線がかち合い、やはり火花が散る。 「うっ」 ぽすん、と頭を叩かれ、軽い振動で絡み合った視線が外れた。思わず息を止める。手は頭の上から離れない。 顔を上げられずそのまま固まっていると、さっき自分がしたように思い切り髪をかき回された。 「く、黒子っち……」 見ると、黒子は微かに笑っていた。いつもの呆れた、仕様のない大きい子供を見る目とも少し違った。分からないけれど、ふわりと温かいものに包まれた気がした。 緊張を解いた黄瀬にしかし彼は、 「三十回」 ぼそっと、呟いた。 張り合わない張り合わない張り合わない……と指折り数える黄瀬と黒子とを、小さい黄瀬が交互に見やっていた。 >> 続 << 戻 |