黒子飴 [ 2 ]
「じゃーいただくっスよー」
 今までの拒絶はどこへやら、はいはいどうぞ、と言った体で黒子は頷く。
 飴玉を舐められてそんな気になるなんて、黄瀬と一緒にするな、というところだろう。目が思いきりものを言っていて、黄瀬はやはり不満だ。
(オレが見境ないみたいじゃないっスか)
 見境がないのはいつもの黒子に対してだけで、この黒子には断じてない。あったら困る。というか泣く。だから早く飴から出て、元の大きさに戻ってほしい。

 つまんだ飴を持ち上げ、唇まで拳一つ分の距離まで持ってきた。すると、黄瀬と睨み合いながら堂々たる様子で立っていた黒子の視線が、そこでふっと横に反らされる。澄ました顔ではあるが、もぞもぞと腕を後ろに回し、飴の壁にそろりと背を当てる様子は何だか落ち着きがない。足元を見たり、飴の内側を確認してみたり、そうしてまた壁に背を押しつける。しかし黒子のいる空間も球体だから、真っ直ぐ後ろに寄りかかることはできない。結局足からずるりと前に滑り出てしまい、口をへの字に曲げている。
 黄瀬は軽く息を吐いた。
「……普通に立ってるか、座るのが一番安定するんじゃないスか」
 黒子は決まりの悪い顔をしたが、結局立っていることにしたらしい。ただ、手は壁についたままだ。何かしっかりしたものに触れていたいのだろう。それをこれから溶かそうというのだが。

 飴が溶けたら、黒子はどうなるのだろう。それだけで身体は元に戻るのだろうか。飴だから気軽につまんで手に乗せたり筆箱にしまったりできたけれど、生身でこのサイズはちょっとした衝突でも大惨事だ。飲みこみでもしたら、一巻の終わりだろう。
(だから舐められたくなかったんスかね……?いや、あれは単純にオレへの不信の目だったっス)
 そりゃ最初は、多少やましいことを考えなくもなかった。だけど黄瀬だって、そういうことをしていいときと悪いときの分別くらいあるのだ。
(……まあでも、それは後で、いっか)
 内心ぶつぶつ言っていると、黒子がまた飴の中で滑っていた。少しでも後ろに下がりたいらしい。気分としてはこれから丸呑みされるようなものだろうから、それも仕方ない。
 黄瀬は気持ちを切り替えた。正直、つるつる滑る黒子がかわいくて臍を曲げていられなくなった。

「口の中には入れないっスから。外から舐めるだけっス。飴は指で支えてるし」
 言うと、黒子は少しして表情を改め、神妙な様子で頷いた。
「いっぺんに溶けたりしないから大丈夫っスよ。日に当てても溶けないなんて、結構頑固みたいじゃないスか。……あ、誰かさんみたいっスねー」
 に、と笑って言うと、黒子は目を細くして睨んできた。構わずに笑っていると毒気を抜かれたらしい。諦め半分に力を抜いたと思ったら、ふわりと静かに笑った。
 ぺこり、と黒子は頭を下げた。よろしくお願いします、と言うときの深々としたお辞儀だ。
「うん、任されたっス」
 黄瀬は笑った目の横でピースを作った。
 


 薄く唇を開き、キスをするように、飴の表面に触れた。少しざらざらしている。昔の缶のドロップのようだ。
 舐めても最初は何の味もなかったが、何度か繰り返すと甘さが広がってきた。多分どこかで食べたことがある。
(氷砂糖……?)
 小学生のときに遠足でもらったくらいしか記憶はないが、味はあれに近い。甘いけれどさらさらしていて、涼しげな香りが鼻に抜ける。

「ちょっとだけ溶けたっスね」
 黄瀬が舐めた部分が薄くなって、完全な球体だった飴はそこだけ少し平たくなった。
 飴の表面はところどころ霜が降りたような白で覆われていたが、溶けた部分は透明に光って曇りもない。興味深そうにそこを見つめる黒子の姿も、前よりくっきり映っている。
 他の部分がまだ多少曇っているからか、黄瀬の舐めた部分はやけに透き通って見えた。光の角度によってはつやつやと濡れて、黒子の目や頬は水分を含んで潤んでいるように見える。彼も不思議そうな顔だ。両手を前につき、黄瀬をじっと見上げている。

 特に問題はなさそうなので、もう一度飴を唇に押し当てた。全面が溶けてしまうと足場が危ういので、同じ場所を集中的に溶かす戦法だ。
(……?この飴、中になんか入ってるっスね)
 飴の一部が窪んできた頃、黄瀬は気づいた。
 もちろん黒子以外の何か、だ。まだそれほど溶けていないのに、舌先の感覚はもう割れそうな薄さを拾っている。中にシロップが入っている飴のようなものだろうか。黄瀬は気になって、一度飴を離した。

「黒子っちの周りって、何か入ってる?水とか」
 黒子はさっき目が合ったときと変わらない姿勢で、黄瀬を見上げていた。手の位置も、不思議そうな表情もそのままで、瞬き一つしない。
「黒子っち?」
 呼ぶと、黒子は今目が覚めたようにぱちんと瞬きをして、ようやく聞かれたことを確認するように周りを見回した。握ったり開いたりした手を上に掲げ、黄瀬に手のひらを開いて見せる。特に何にも触れないようだ。
「空気なんスかねえ」
 しかし飴はそういう感じではない。何もない、のではなくておそらく、違う何か、がある。黄瀬は再び、その薄くなった箇所に舌を当てた。
(あれ、冷たい)
 舌先に感じる温度が変わった。氷砂糖よりももっとひんやりとした、薄荷のような冷たさだ。ただの空洞ならこんな温度の違いはないだろう。
 溶け出しそうな飴の表面は薄い玻璃のようだった。なめらかで、儚い。少しでも力を込めたら割れてしまいそうだ。このまま触れているだけで、じきに溶けるだろう。

 熱心に舐めていたからか、頭が心なしかぼんやりしてきた。黒子の様子も見ておこうと、口から飴を離す。ずっと押し当てているからか、唇もほのかに甘い。
 しかしぼうっとした甘やかさは、より透明感を増した飴に視線を移した途端、吹き飛ばされた。危うく指に力を込めるところだった。

「――黒子っち」

 さっきまでしっかりと立っていた黒子は飴の中でへたりこみ、立てた膝の上に顔を伏せていた。両手を下に突き、それで何とか上体を支えている様子だ。

「黒子っち具合悪い?」
 ふる、と黒子は伏せたままの顔を横に振った。顔を見せようとしない。何かあったに違いない。
(そうだ、さっきだって)
 しっかりなどしていなかった。自分を見上げてはいたけれど目の焦点は合っていなかったし、掲げた手を降ろすところだって見ていない。あのときからおかしかったのだ。
(とにかく、早く出してあげないと)
 黄瀬は飴の一番薄くなった部分から、声を通すように話しかけた。

「あとちょっとでここ溶けるっスよ。そしたら多分、出れるっスから――……」

「……」

(――え?)

 何か聞こえた気がして、黄瀬は咄嗟に周囲を見回した。部屋には自分しかいない。飴の中に目を戻す。

「……」
 正面から見ていたときには気づかなかったが、横から見ると一目で分かる。耳もうなじも、林檎のような赤に染まっている。ゆっくりとではあるけれど肩が上下しているし、半袖から伸びる白い腕も、今にも崩れ落ちそうに震えている。
 それがどんな状態か、分からない関係ではない。
 黄瀬は何も考えず、濡れて薄くなったそこに、息を吹きかけた。びくりと身体を震わせた黒子が小さく丸まる。反応が大きい。飴の薄い最後の壁が、身体の内側に繋がっているかのようだ。

「……大丈夫っスね?」
 もう少し舐めるよ、と声をかけ、一番薄いところを避けて、黄瀬は溶けかけの場所を広げていった。もし飴の固い層を全て溶かし、黒子を包むものがこの薄氷のような壁一枚になったらどうなるのだろう。やらないとは言ったけれど、その繊細な飴を口の中に含んで、舌でたっぷり濡らしたら。唇の上で、弄んだとしたら。
 薄くなった壁は、飴全体の半分くらいにまで達した。顔を上げないから気付いていないだろうが、もう彼が内側から叩けば割れるだろう。黄瀬はそっと、舌先でそこを押した。

「ぁ……っ……」

 砂浜の、小さな貝殻がぶつかったような声が聞こえた。
「黒子っち、動ける?」
 最後の理性と良心とで尋ねた。このまま舐めていれば、もうすぐ黒子の前方を塞いでいる壁は溶ける。そうすれば舌は自然、もう一層奥に触れることになる。
 飴は中心に近づくほど黒子の感覚を刺激するのだろう。既に彼がこうなっているというのに、これ以上過敏な中に触れるのはかわいそうだった。黄瀬は黒子をいくらでも乱したいけれど、それは自分が支えてあげられる状態が前提である。縋るもののない飴の中で今の大きさの彼を、と思うと何だか一方的にいじめているようだし自分ももどかしい。

「ね、ここもう、黒子っちが叩けば割れるっスよ」
 黒子は頷いたが、動く気配はない。早くしてくれないと、黄瀬の自制心も溶けて消えそうだ。
 艶めいて光る表面を舐めれば、声が漏れてくる。黄瀬に何かを訴えてくる、甘い声だ。聞こえないと思っているからか、それとも堪えられないのか、途切れ途切れの声はいつもより多い。
「黒子っちホラ……このままじゃ、全部溶けちゃうよ」
 飴が薄くなれば、声だけではない、息遣いも洩れてくる。黄瀬の理性を溶かしにかかってくる。

 黒子はようやく、顔をごく僅かに上げた。座ったまま、腕をそろそろと前へ伸ばす。しかし手が届くのは曲げた脚の先までらしい。弱々しく指でひっかいているが、その力で割るにはまだ飴が厚い。
「そこ……、そこはまだそんな溶けてないんスよ。も少し舐めるから、待って」
 指で持っているところはあまり舐めていないから、厚さに差があるのだ。指をずらし、黒子の腰の辺りから肩にかけて、慎重に舌を這わせる。
「……っぁ、ぁ」
 飴の不均等な隆起をなぞっていると、黄瀬でさえ錯覚しそうになる。つるりとした腰骨や、柔らかい脇腹の肌を舐めているような――。
「……きせ、く……」
(てか、その声……やばいんスけど)
 特に名前を呼ばれるとまずい。いっそのこと歯を立てて、飴など割ってしまいたくなる。それを抑えていられるのは、ことさらゆっくり舐めているときに洩れる声がたまらないからだ。

「、ぁ」

(……溶ける)

 結局、黒子の力で割るより飴の溶ける方が早かったらしい。薄くなっても何とか持ちこたえていた壁の一部が、黒子の声を合図にしたように、するりと溶けて消えた。甘い何かが舌に流れてこんでくる。咄嗟に唇を当て、こぼさないようそれを吸った。
(あま……)
 酔ったような頭で、黄瀬はそれを飲み干した。砂糖水だ。薄荷の香りがする。
 丸く溶けた飴の入口を下に向けないよう注意しながら、飴を口から離した。身体の奥まで沁みるような、ひんやりとした甘さだった。自分の息も甘い。
 ともかく、これで黒子は飴から出て来られるだろう。

「……黒子っち、もう出て――」

(――え)

 ぎくりと黄瀬は身体を強張らせた。飴の中に、残っているはずの姿がない。まさか。

(飲んでない)

 いくら小さくても、喉を通ったことに気付かないほど小さくはない。でも三分の一ほど溶けた飴の中は空だ。甘い水を湛えていた内側がきらきらと光っている、その反射光だけが満ちている。

(まさか、溶け――)

 あれほど甘く、潤って感じた体が冷え、凍りついていく。まさかまさか。


「……っまぶ、し」


「――――」


 黄瀬は勢い良く後ろを振り返った。
 ベッドの上に、息の荒い黒子が仰向けに横たわっていた。

 黄瀬が抱きしめられる大きさの、誠凛の夏服を着た、いつもの黒子だった。





>> 続
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