雨のちはればれ [ 2 ]
◇◇◇ ある雨の日 −(時間は遡って)PM16:00− ◇◇◇


 黄瀬が誠凛へやってきたのは、その日の部活中だった。いつからいたのか、開けっぱなしだった体育館の扉から、日陰でも光る髪と力の抜けた肩、それにひょろ長い脚がはみ出ていた。
(また人の学校に勝手に入って……)
 隠れる気もないようだが、練習を覗く気もないようだ。体育館の扉の外側に、背を預けて座っている。通りすがりの女の子たちがその姿を見ては、何かひそひそと話しながら花が咲いたように笑いあう。珍しくサイン待ちの行列と人だかりはできていないが、携帯を向けられているのは、おそらく写真を撮られているのだろう。
 何をしているのか分からないが、放っておくのも問題だ。彼は目立ちすぎる。

 練習中だった黒子は休憩時間を待ち、ぽたぽたと落ちる汗を手で拭いながら、薄い水色のシャツに包まれた背中に近寄っていった。
「そんなとこにいたら、邪魔ですよ」
 体育館の外通路に、黄瀬が座り込むほどの十分な幅はない。脚を投げ出していないだけマシだが、そもそもの上背から立派な障害物になっている。
 斜め上からそう声をかけたら、彼は詫びることもなく端正な顔をきれいに微笑ませて黒子を見上げた。にっこり。音さえ聞こえてきそうだ。
 違和感を覚えたのは、思い返せばこれが最初だった。
「当たり」
「はい?」
「俺ね、今目ェ閉じてたんスよ。でも、こっちに来るのが黒子っちだって分かったっス」
 愛っスね、と得意げに口の両端を上げる。首の力を抜いて、見上げた頭を背後の扉にもたれさせた。どうりで女の子たちが見てるだけで集まらず、声もかけないで行ったわけだ。
「写真撮られてましたよ」
「いーっスよ、それ位。安いもんス」
 ということは、写真を撮られていることも気づいていたんだろう。撮られていることを分かっていながら特別気にせず時間を流せるとは、さすが仕事にしているだけあると思う。

 ぱんぱん、と制服についたほこりを払いながら、ようやく黄瀬は立ち上がった。たった今まで見下ろしていたことが嘘のように自分の背を抜いて、今さらのように体育館の中をひょいと覗いた。部内の誰かと目でも合ったのだろう。軽く頭が下がった。

「で、今日はどうしたんですか」
「どうもしないっス。黒子っちがバスケしてんの、見に来ただけ」
「コートに背向けてた人が何言ってるんです」
「聞いてたっス。声」
「?」
 自分の声がコートの外まで聞こえるとは思えない。存在の認識すら消そうとしているのだ。そもそも声自体、まず出さない。
 黄瀬は黒子の疑問を察したようで、にへ、と相好を崩して続けた。
「黒子黒子って呼ばれてるの聞いてるだけで幸せなんスよ。そこに黒子っちがいると思うと」
「変態ですね」
「違うっスよ、純粋な恋心っス!」
「間違いなく変態です」
「変態っていうのはそっから黒子っちのあられもない姿を想像す……ッ痛!ごめん!」
 真面目な顔でとんでもないことを語りそうな黄瀬の足を踏みつけ、黒子はいつも通り軽口を叩く顔をじっくり見つめた。どうも、冴えない。
「?」
 黒子の視線を受けた黄瀬は、きょとんとして首を傾げた。反射的にどこかがムッとした。隠された、と感じたのだ。首を傾げる寸前、瞬きをしたときの瞳は、どこか遠かった。出会ってから続いていた違和感の正体はそれか、とようやく気付く。
(どうして何かあったならあったと言えないんですか、キミは)
 しかし気付いたと同時に、館内から休憩終了の声が聞こえてくる。反射的に声の元へ視線を走らせると、たったその一瞬に黄瀬はいつものお気楽な姿勢に戻っていて、黒子が目を戻したときには、完璧な笑みをまとっていた。
「休憩終わりっスね。俺もそろそろ行くっスわ」
「黄瀬君」
「またね。黒子っち」
 黄瀬の声と、館内から飛んでくる自分の名前が重なる。黄瀬は足元の傘を拾い上げると、片手を振って黒子に背を向けた。

「……」

(またですか)
 たまに黄瀬はこういうことをする。
 何かがあって、何か話したいことがあるくせに、会いにくるだけきて、一人で完結する。

 決定的におかしいのは、笑顔だった。彼はいつも自分の前だと笑っているが、それはもっとゆるくて明るくて、ときどき整った顔立ちを忘れさせるほど間抜けで、体温を感じるほどに温かい。でも今日の最初と最後の笑顔は、まるでポスターのようだった。きちんと、整えて見せた笑顔。
 ぷらぷらと出口へ向かう背中を見る目が、つい恨みがましくなる。能天気な金髪は、また通りすがりの女生徒にひらりと手を振ったりしている。仕事柄とはいえ、笑う気がないときにも笑う彼を見るとたまにイラっとする。ここにボールがあったら、問答無用で真後ろから投げつけるのに。
 同じ学校でないことが、たまにもどかしい。ごくごく、たまに、こういうときだけ。







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