かんたんなこと [ 2 ]
 あの日、桐皇の体育館をこっそり覗いていたオレの背後に、青峰っちは現れた。
「何やってんだオマエ」
 ひょいと首を伸ばして、オレと一緒に覗き込もうとする。突然頭上に現れた、見慣れた顔にぎょっとする。
「青峰っちこそ何やってんスか。練習始まってるっスよ」
 とっくに練習は始まり、中の部員達はもう身体中に汗をかいている。なのに、涼しい顔をしてポケットに手を突っ込み、これから練習に混ざろうという様子もない。
 青峰っちは突き放すような目で体育館を見ただけで、何も答えなかった。
「偵察ならバレねェようにしろよ。さつきもいるからな」
 そう言ってぷらぷらと歩き出した背中を唖然と見送ろうとしてしまい、はっと我に返る。慌てて引き止めて、つまらなそうな顔をしている青峰っちに、オレは言った。

「青峰っち、オレとバスケしねっスか?」
「やんねーよ。オレが勝つの分かってっし」
 即答だった。顔色一つ変わらない。
「んなの、分かんねェじゃねェスか」
「……相変わらずだな、オマエ」
 ほんの少しだけ、冷たかった目に色が戻る。だけど、相手をしてくれる気にはならないようだった。また、背中が向けられる。
(どうしたら)
 そのとき、どうしてか無性に引き止めたくなった。このまま別れた後のことを考えると、ぞっとした。

「じゃあ、バスケじゃなくていっスよ」
「?」
 興味を引くことだけは成功したようで、青峰っちは顔だけ振り向いた。嬉しかったのと、でもどこか他人事のように自分を見ていたのとで、何故かオレは完璧に笑顔だった。まるで笑顔のお手本のように。
「オレ、うまいっスよ。男は初めてっスけど」
 無気力だった目は、意外そうな表情で軽く見開かれた。




 そんなことをしているから、桐皇の敷地を出るときはいつも気まずい。
 場所は校庭の隅っこにある、旧体育倉庫。時間はバスケ部の練習中。練習中かよ?!と言ったら、個人練に入ったらバラバラ動き出すだろ、と青峰っちは言い、最後に、誰も気付きゃしねーよ、と付け足した。それはアンタが周りを気にしてないからでしょ、と思うのだが、自分から誘っておいて何も言えない。

 それから何回かした。何の後腐れもない。じゃやるか、で始まって、じゃ帰るか、と終わる。バスケみたいだ。

 見つかったらヤバイ、とは思っている。自分は世間に顔も割れているし。
 でもついここに足を向けてしまう。
 理由なんてとっくに分かってる。簡単だ。

 してる間は、考えないで済むから。



 今日も「旧チームメイトの偵察に来ただけです」といった風に校庭を抜ける。途中で「あ、黄瀬だ」と指を差されてもまるで動揺しなくなった。さすがに最初のうちは冷や汗も出たが、今では女の子たちに囲まれてもすらすらとサインすらできる。
(あー何か……通い慣れたっスね)
 と女の子に手を振ってから校門を出て、いつも通り駅に向かおうとした。
 のだが。

 びく、と露骨に身体が震えて足が止まった。オレより、青峰っちよりも背が高い、学ラン姿が腕を組んで、門の横に背を預けていた。オレが気付くのを見越していたように、じろりと眼鏡越しに睨みつけている。

「オマエ、何をしているのだよ」
「……緑間っち、こそ。桐皇の練習なら向こ」
「オレが聞いているのはそういうことではない」
 ぴしゃりと遮った緑間っちの目は、氷のようだった。緑間っちは、冷静に見えても感情面は十分に熱い。人付き合いなんか興味がなさそうなくせに、面倒を見るのはうまい。
 少なくとも、帝光時代にこんな目を見たことはなかった。

(バレてる)

 どうして、いつ、どうやって。何も分からなかったが、それは確実に思えた。
 冷え冷えとした視線から顔を反らす。何でもない顔を取り繕うとしても無駄だった。そんなの、ぶっ倒れる寸前の姿まで見せあった仲間が見抜かないわけがない。
 居たたまれないなんてもんじゃない。冷汗どころか、指先まで少しずつ冷えていく。緑間っちに答えられることなど、何もなかった。初めて、自分を心底情けないと思った。

「来い」
 はあ、と溜息をついてオレに背を向ける。数メートル先まで歩いた緑間っちは、まだオレが動けずにいるのを見て、さも呆れたような顔で戻ってきた。
「まるで臨終間際だな。少しは顔を作るのだよ。オマエの仕事だろう」
「……できねっス」
「ふん、まあここでヘラヘラ笑っていたら殴るところだ。が、オマエは馬鹿だが運がいい」
「?」
「知られたのがオレなのだからな」
 再び肩を揺らした自分に、緑間っちは何かを押し付けてきた。固くて冷たいものがぐいぐいと手の平の中に入ってくる。無理矢理持たされたそれは、すっかり冷えたおしるこの空き缶だった。
「ありがたく思え」
「……おしるこ、入ってないスけど」
 こんなに落ち込んでいても、先の展開はうっすらと読める。これはもしかして、アレなんではないだろうか。
「ラッキーアイテムはおしるこではない」
 ぶっと噴出したら、涙も一緒にぽろっと落ちた。辛いときだって、笑えるものは笑えるのだ。人間はよくできている。
(やっぱりラッキーアイテムの話っスか)
 あまりにいつも通り過ぎて笑って油断したら、涙が次々と落ちてきた。ああこの間の試合以来だなあと頬が濡れるのを感じた。
「じゃあ何だったんスか」
「缶ジュースだ」
「おしるこの空き缶と缶ジュースは、全然、違うっスよ」
 てん、てん、と涙が缶の上に落ちる。中々続きが言えない。
 おしるこ缶が自分の手にあるなんて不思議だ。おしるこはいつもテーピングをした左手に握られていた。プルトップを引くのが右手だからだ。シャンプーの蓋だって左手では開けないとか言って、合宿中皆が色んな蓋を開けさせては緑間っちが途中でキレていた。
(楽しかったっスよ、やっぱり)
 思い出せば思い出すほど、楽しかった分だけ泣けてくるなんて不思議だ。

「……まったく。黄瀬のくせに贅沢なのだよ。行くぞ」
「緑間っち」
「何だ」
「オレ、桃の天然水が飲みたいっス」
 今日は甘いものが、飲みたい。
 言ったら、好きにしろ、と緑間っちは少しだけ笑ってくれた。







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