秘密の場所 [ 10 ] |
(ありゃ) 部屋に戻ってみると、黒子がベッドの脇に背を預けて眠っていた。首はくたりと斜め下に傾き、両手も腰の脇にぽとりと落ちてしまっている。眠っているというより、落ちている、に近い。 (……体力、なさそっスもんねえ…………) 床に散らばった雑誌やらをそっと足で除け、音を立てないようにペットボトルとグラスを置いた。眠る黒子の正面に屈みこみ、うすい目蓋やゆるく閉じられた唇を眺める。白いシャツに包まれた肩は、手の平に収まってしまいそうな大きさだ。 (……小さい、よなあ) 言ったら絶対怒られる、と本能的な勘が告げるので間違っても口には出さないが、しみじみ思った。今まで単純な身長差以外気にしないでいられたのは、普段の黒子の雰囲気に強い意志が表れているためだろう。影が薄いという印象も、自分にとっては薄らいできている。 (疲れてたんスね) これだけじっと見ていても起きないとは余程だろう。そして疲労の責任の半分くらいは自分にある。 早上がりとはいえ部活もあって、その後ゲームにも付き合ってもらって、さらに家まで来てもらっている。どうせならベッドに寝かせてあげたいと思うのだが、その後が怖くて手が出せない。結果、寝姿を見守るしかなくなっている。 黒子には、触れないでほしい領域があるように見える。それが何かは分からない。記憶をなくす前の自分は知っていたんだろうか。多分知っていたんだろう。 言いたくないなら聞かないけれど、それでは足りないだろうか。 部の先輩もクラスの友達も、記憶がないからといって変な線引きはないし、彼らといるのも楽になってきたし楽しい。しかし黒子といるのが一番落ち着く。 黒子は前の自分と今の自分をそれなりに分けて扱う。多少落ち込みもするが、でもそれが彼の誠実さのような気がするのだ。黒子の中には“今の自分”の居場所もある、と勝手に思っている。 たださっきの―――中学時代の話の―――ときのような、自分に分からない何かで黒子がふと言いよどむとき、目に陰りがさすとき、何もできないことが悲しい。多分、自分が好きだと言っていることも半分くらいしか信じられていないのが悲しい。前を知らないから、違うと言われても否定はできない。 (でも、ただの友達だったらこんな風に) 気配を、息を殺して黒子の頬に指を伸ばしてみる。でも触れられず、指は手の平に丸めてゆっくりと戻した。 (触れたいとも、触れるのが怖いとも思わないっスよ) 夜の公園で、無理矢理口付けたあの日がきっかけだった。 その前までは黒子の存在が、仲が良かったということすら不思議で、メールを辿って、やり取りを見て、公園で挑発めいたことをして、ヤケになって、自己嫌悪と何か収集のつかない感情でくたくたになった。記憶のない自分と周囲との辻褄合わせに疲れていたところへ、黒子にあんなことをしでかしたのだ。立ち直るどころか、自分がどこにいていいのかも分からなかった。 なのにあのとき、黒子は何も言わず、構うそぶりも見せず、当たり前のように自分を待っていてくれた。 あのときの気持ちを、ようやく呼吸が深くできるようになった、そんな感覚を、どう伝えていいのか分からない。 (だから遅かったかもしんないけど、自分で分かったんスよ) これは大事なものなんだ、と息をするような自然さではっきり分かった。その瞬間から黒子は、”自分の知らない黄瀬”の大事なもの、ではなくなった。 居心地が良くて一緒にいるようになると、うっすらと感じていた黒子の見えにくい内側が時折見えるようになった。それは柔らかくて繊細で、容易に触れられない。だったら触れられないかわりに、せめて傷がつかないように、なんて思ったのだが。 (…………オレの「好き」じゃダメかなあ) すうすうと眠る黒子の寝顔はあどけないが、起きてしまえば一変する。自分の助けなど欠片も必要としているようには見えなくなる。 でも今はこうやって眺めていられるのが嬉しい。今までこんな機会はなかった。起こす方が親切と分かっていても、ついいつまでも眺めてしまう。 (あ) すると眠りが深くなったのか、黒子の首がかくんと横に揺れ、そのはずみで右肩も横へ滑った。思わず身を乗り出したが、そこで黒子の身体はそこで止まる。どうするべきか中腰で迷っているうちに、また黒子は眠ったまま、ベッドの脇を伝って横へ倒れていく。 (え、ちょ、いやいやいや、だって) このままでは床に頭をぶつける。身体もぶつける。大体姿勢が危うすぎて見ていられない。 だから、しょうがないじゃん!と最終的な言い訳を胸の中でしたと同時に、倒れかかる黒子を腕で抱き止めた。 >> 続 << 戻 |