秘密の場所  [ 11 ]
 何だかあったかいな、と目蓋を上げたら目の前に黄瀬の顎の先が見えた。じゃあこれは肩か、と頬に触れている温かいものをぼんやり認識する。そこでぱちりと目が開いた。自分が寝ていたことにまず驚いて身じろぐと、すぐに気付いた黄瀬が咄嗟に口を開いた。
「あ、あの、違うっスよ、……違って…………」
 言い訳はそこで途切れた。様子がおかしい、と思ったら案の定、自分を片腕の中に収めたまま、黄瀬は完全に黙ってしまった。瞳は自分を映しているが視線はまったく合わない。違う何かを集中して考えているようで、何度も瞬きを繰り返す。混乱とまではいかないが、目の奥が切迫していた。

「黄瀬君?」
「…………うん」
「大丈夫ですか」
 遠くを見ていた目が焦点を取り戻し、どうしてなのか眉を寄せ始めた黄瀬にそっと尋ねると、彼は少しの間の後、突然我に返った。
「………………わあ!ごめん!」
 慌てた黄瀬はものすごい速度で身体を離した。離された自分が目眩を起こしそうな勢いだった。それから猛烈に弁解を始める。
「違うんスよ!なんかしようとしたわけじゃなくて!黒子君が倒れそうで」
「黄瀬君分かってます。大丈夫ですから、落ち着いてください」
「………………スマセン」
「謝らなくていいです。ボク寝てたんですね、すいません」
 ふる、と首を左右に振った黄瀬は、何故か泣きそうに見えた。今まで浮かせていたままだった腰をようやく下ろし、膝を立てて座る。寝ている間に何かあったのか、自分がまさか何か口走ったのか、苦しげな顔に緊張した。

「…………何か、ありました?」
 聞くと、僅かに目を伏せた。また視線がどこか遠のく。
「……分かんないス」
「…………」
 分からないことが悲しい、という声だった。投げ遣りなわけでも、隠そうとしているのでもない。普段黄瀬が見せることのない、悲しいという感情まで、そのままの形で表れていた。
 記憶に関わることなのだろうと、察しはついた。だからこそ考えなしに尋ねることはできず、黒子もしばらく黙ることしかできなかった。
 黄瀬は床についていた右手を顔の前まで持ち上げ、自分のものではないような目をして黙って見つめていた。もしかしたら自分がここにいることが不思議なのかもしれなかった。

「……ボク、どれくらい寝てました?」
「ちょっとっスよ。戻ってきたら黒子君が寝てて……そのまま倒れそうになってたんで、そんであの、抱き止めたんスけど」
「はい」
「……そんとき、何かにすごいしっくりきたんスけど、でももっと違うような感じもして、色々混ざって」
 黄瀬は一度言葉を切った。小さな溜息をついたのが、落ちた肩で分かった。
「……結局何だったのか分かんなかったっス」
 そこには、それを繰り返したのだろうと思われる、諦めが滲んでいた。
 黒子は自分を突き倒したくなった。日常生活は問題なさそうだ――――などと思った自分を心底呆れた。黄瀬のいる世界がどんなものか、どれだけ危ういか、少しも分かっていなかったのだ。
 その自分に、黄瀬は顔を上げ苦笑してみせる。

「かっこ悪いとこ見せちゃったっスね。…………まあ、分かんないもんは分かんないんで」
 しゃーないっス、と折り曲げた脚を片方だけ抱きかかえる。
 その脚も自分のものではないように感じるのだろうか。黒子は思った。では何なら、自分のものだと感じられるのだろう。

「……もう一度、試してみます?」
「え?」
「さっき、何かしっくりいきかけたんでしょう。違和感があったんなら、それがなくなるまで、試してみたらどうですか」
 黄瀬はきょとんとしてこちらを見た。いつものような大はしゃぎの態も見せず、ぽつりと言う。
「………………いいの?」
「どうぞ」
 お好きなように、と両方の手の平を黄瀬へ向けると、腰を上げ、膝立ちになっておそるおそる正面へやってきた。一度じっと目を合わせて最後の確認をすると、ふわりと腕が回される。そっと、本当にゆっくりと身体の隙間が狭められ、最後にぴたりと顔が胸についた。それでもまだ全然苦しくない。
 ここまで壊れ物のような扱いは“黄瀬”にもされたことがない。そう思いながら、黙って黄瀬が動き出すのを待つ。

 黄瀬は一度動物のように黒子の匂いを吸ってから、もぞりと腕を動かした。背中の後ろで真っ直ぐ回してみたり、腰の辺りを抱えてみたり、手の平を肩に添えてみたり、これぞという体勢を真剣に探しているようだった。長い腕と手の平が、場所を変え力の強弱を変え、黒子の上半身を覆ってはまた離れ、また覆う。
 きわどい体勢になりながらも黄瀬はその行為だけに集中していて、怒られることに怯える様子もなく、逆に何かしそうな雰囲気もなかった。ただ腕の中の身体を放す気配は全くなく、ひたりとくっついたまま、何かに一致する体勢を、そこから繋がる記憶の欠片を探している。

 そんな黄瀬を止めるわけにもいかず、また止めたいわけでもなく、黒子は好きなようにさせていた。密着したまま何度も抱き直され、時折身体の内側がふるえそうになると、目蓋を下ろしてやり過ごした。

「あ、……これ」
 黄瀬がぴたりと動きを止めた。それまでより、ほんの少し腕に力をこめる。
 両方の腕の間にそれぞれ黄瀬の腕が通り、腕は背中できつく交差している。頬を黒子の髪に寄せ、まさに抱きすくめられている形だ。

(………………これ、)
 黒子はこれに覚えがあった。
 自分を抱く黄瀬が最後の最後に、そうして思い切り抱きしめるのだ。息が止まるような力強さで。

「うわー……落ち着くっス」
 そんなことをしっかり覚えている自分と、こんなときに思い出した動揺に追いうちをかけるように、もう一層引き寄せられる。無意識なのだろう黄瀬の手が、うなじを支えるように触れた。指先が皮膚の表面を掠める。

 身体に走った感覚を締め出そうと目を閉じたがもう遅かった。身体が小さく動いたことを、これだけ密着していて気付かれないはずがない。顔に集中して血が集まってくる。自分の頬は黄瀬の首に触れていて、それがますます熱を加速させた。
 どうにも止めようがなかった。どれほど普段感情の制御に慣れていようと、隠し慣れていることとそうでないことがあるのだ。

「……黒子君?」
「動かないでください」
 ぴしゃりと言ったところで格好などつかない。熱い顔を押し付けて隠しているのが黄瀬の身体なのだ。隠すどころかこれほど分かりやすいことはないだろう。透明少年などと呼ばれたが、透明になれるものなら今すぐなりたい。
(……こんなときに)
 黄瀬にそんなつもりもないのに。
 そんな風に反応するなんて、いたたまれなさに今すぐ消え入りたい。

「黒……」
 呼ばれて身を固くしたのが分かったのだろう。黄瀬はそこで止めた。腕の力も気付けば大分弱まっている。しかしどうしたらいいか分からず、ただじっと固まっていると。
「………………い、いた、いたい、痛いです黄瀬君」
 緩んだはずの腕が再び強められ、訴えずにはいられないほどの力で抱きしめられる。
「えへへー、黒子君抱きつき放題」
「力は加減してくださいっ」
「役得っス」
 楽しげに言った黄瀬はごく自然に腕をほどいて、一番最初のように全身をゆるく抱く形に戻した。最後、名残惜しそうに少しだけ黒子の全身を引き寄せ、大切なものを元に戻す動作でその身体から腕を離す。その頃には黒子の顔の赤味も引いていた。

「ありがと」
 黄瀬はまた黒子には指一本も触れない位置に戻り、微笑んだ。茶色がかった瞳が柔らかく細められる。言葉にしない感情はそこに溢れそうに籠められていて、瞬きをすればこぼれ落ちそうだった。

「………………」

 息をつめて見つめそうになった自分に気付き、すぐに呆れた顔を装う。しかし内面の混乱はまるで収まらない。

 あたたかい毛布で包むような目も口元も。今見たもの全部が。
 まるで黄瀬そのものだった。

 記憶を失ってからの黄瀬が、初めて見せる表情だった。


 しかしその顔は笑ったまますいと反らされ、苦味を帯びる。
「これ以上見てたら我慢できなくなりそっス」
 黄瀬は座ったまま腰をひねり、ポカリ持ってきたんスよーと言いながら後ろに置いてあったペットボトルに手を伸ばした。
 黒子は無意識に腰を浮かせかけた。自分が何か言う前から諦めている黄瀬の言葉を訂正したかったのか、霧散した柔らかい気配を引き止めたかったのか。
 分かっているのは、自分がそうさせたということだけだった。

(……………馬鹿ですか、ボクは)

 さっき、黄瀬がどれほど満足そうな声を出していたか、ようやく手にしかけた何かを、大切に確認しようとしていたか。
 あんな過剰な態度を見せなくても良かったのだ。たとえ身体が反応したとしても、あのまま続けさせることはできた。

 見慣れた手からグラスを受け取り、習性的な動きで淡々と口をつけ、喉に流す。二口飲んでグラスを床に置き、黒子は膝をついたまま移動して、黄瀬の正面に正座した。

「ごちそうさまでした」
「…………どーいたしまし、て……?」
「飲み終わりましたか?」
 手の中の空いたグラスを目で指すと、黄瀬は戸惑いながらぎこちなく頷いた。
「じゃあ、どうぞ」
「へ?」
「途中でやめさせてしまったんで」
「え?ええ?」
 さっきよりももっと真っ直ぐ腕を伸ばし、黄瀬を見上げる。まったく理解できていない様子の黄瀬はそれでも姿勢を正し、慌てて首を振った。
「だ、だだだだめっス、さっき十分してもらったんで!」
「だめなんですか」
「や、そういうだめじゃなくて、オレは嬉しいっスけど」
「…………じゃあ、今日はそろそろ帰りますけど」

 一言の返事が返る間もなく、次の瞬間にはあっという間に抱きかかえられた。あまり簡単に再現するので、どこまでこんな体勢が身についてしまったのか、どちらの黄瀬も心配になる。

「……黒子君」
「はい」
「あの、ずっとこうしてられる自信、ないんスけど……」
 そんなことを言いながら、閉じ込める腕はさっきよりも固い。耳のすぐ上から響く声に、耳をすませる。
「そうですか」
「…………オレに触られるのヤじゃないんスか」
「嫌だったらこの状況はないです」

 このままでもそれ以上でも、どちらも同じように思えた。黄瀬の根本的な欲求は、触れて確認したいということだろう。頭では分からなくても、身体が覚えていることはある。たとえあやふやなものでも、つかめる何かをつかんで、それがもう一度黄瀬を作っていくのなら、それでいい気がした。

 黒子の答えに安心したのか、黄瀬がまた身体と身体の隙間を狭める。ためらいながらも腕の中の黒子を確認するのが最優先のようで、ためらっていた気配がだんだん集中に変わり始める。

 ただ抱き合っているだけの時間が静かに流れていた。
 黄瀬が時折深い呼吸をする。
 黒子は目を閉じて、満足そうな吐息の音を聞いていた。


 







>> 続
<< 戻