秘密の場所 [ 12 ] |
身を預けてくれた黒子に、何でだろう、という疑問は当然浮かんだ。我儘な言い分だと分かっていても、同情だったら、と考えればそれまで以上に心が重くなった。しかし気持ちが沈むよりも先に、それはない、と自分自身がはっきり告げる。彼はそんなことはしない。腕の中に納まっている体温を抱きしめれば抱きしめるほど、確信は強くなる。 そういうことをしなくても、とにかく黒子に触れて確かめてみたかった。さっきは不用意に触れて驚かせてしまったようので、座ったまま抱きしめ、なるべくゆっくりした動きで手の平を身体の表面に添わせる。自分より一回り以上小さいけれど、筋肉がきれいに骨を覆っている、運動選手の身体だった。背の中央がきゅ、とくぼんでいる。 とく、とく、と心臓の音が伝わってきた。動きを止めて様子を探ってみても変わりはないが、何しろ黒子だ。分かりにくい。もし緊張させているならそれを解きたくて、耳元に触れるだけの軽いキスをした。 (……あ) 良かれと思ってしたのだ。それ以上しなくてもいいと、そのときまでは本当に思っていた。 しかし唇を離したあと、その耳がほんのり色づいた。濃くはない、薄い桜色だった。それを見たら、ぴたりと思考が止まってしまった。唇が勝手にそれを求めにいくのを、少しも止められなかった。 全身の体温より少し低い耳朶は、皮膚が薄くて柔らかい。 唇で触れて良かったと思った。耳を象る骨が頼りないのも、ごくごく僅かに黒子が震えるのも、見逃すことなく直接感じ取れる。耳の縁を舌先でなぞると、つるりとなめらかに滑った。目を細めた黒子は、そっと静かに息を吐く。 (うわあ…………) 熱っぽいような眼差しも、少し濃く桃色に染まった耳朶も何とも愛しくみえる。 さっき見られなかったが、多分赤くなっていただろう顔はこんな風だったのだろうか。 (……無理矢理見なくて良かった) 目の縁に口付け、黒子の変化を教えてくれる耳朶を、親指で何度も撫でた。ふっくらと柔らかく、触れているうち赤味が増していく。 もしこんな、見ないままでは死んでも死にきれないような表情だったとしても、さっきだったら自分が目にした瞬間壊れたに違いない。今だって触れるのが怖いくらいだ。でも身体はもっと触れたいという欲求に従って動いていく。 布越しの接触がもどかしくて、シャツの裾に手をかけた。ベルトから上の腰が露になって、自制心を失いそうになり目を反らす。ごまかしたいのと落ち着きたい気持ちが半分ずつ混ざり、一度深呼吸をして黒子に抱きついた。 「………黄瀬君…………?」 「…………あの、黒子君」 「はい」 「ごめんっス」 「…………何が、ですか」 「……理性とか、飛びそ……」 「………………」 「あ、いや!嘘!頑張るっス!全力でキープするっス理性!」 沈黙に焦って取り消すと、なんだ、と小さな声が聞こえた。とす、と黒子の頭が胸に預けられる。ほこりと、触れた部分があたたまった。 (……初めてだ) 抱きしめても逃げないし、手を伸ばしてはもらったけど、黒子から触れられたのは、これが初めてだ。 小さなことに感動して、髪に手を差し込むと、黒子が言う。 「そんなのいいですよ、しなくて」 「や、でも」 「キミの理性なんて線香花火みたいなものですから、もともと」 「そんななの?!」 そんなです、と笑う黒子に安堵しつつ、その髪に顔を埋めてううと唸る。確かに自制心も理性もそう立派なものは持ち合わせていないけれど、そう言われるとせめて線香花火以上には長持ちする理性で優しくしたくなる。黒子の体温は偉大で、触れるとどうしてかそういう気になってしまうのだ。 理性理性理性、と心の中で唱えながら、シャツの中に手を潜らせた。さらりとした皮膚と、意外と高い体温の差に早速揺らめくが、直接触れる喜びの方が大きい。 (あったか……) 背中の形をなぞり、脇腹を指の背で撫でると、黒子の身体が横に逃げた。困ったように眉を斜めにする。 「……くすぐったいです」 「うん、まあここってそうっスよね」 言って、同じ場所にもう一度触れると、また黒子は身体を揺らした。ちょっと困った、というくらいの表情を保ってはいるが、呼吸が淡く乱れている。目の奥も何かをためらうように揺れている。 いつもより気怠げな瞬きに、ぞくり、と背に何か伝った。身体が逃げないよう片腕で黒子の上半身を抱きとめ、広げた手でそこを繰り返し撫でる。刺激をゆるめた分、身体を跳ねさせなくなったかわりに胸を上下させて呼吸をする黒子は、穏やかな熱に巻き込まれるように、目を瞑った。 「オレここ好きっス」 「そう……ですか……」 「ん」 制服と腰の隙間から指を下へ潜らせる。つるりとした腰の皮膚を辿りながら、もっと太った方がいいスね、などと思う。こんな簡単に手を入れられるようじゃ危なくて仕方ない。腰骨にもこうして触れることができてしまう。 「…………っ」 弧を描くように丸みのある骨をさすると、黒子は身体が震えるのを何とか抑えるように、反射的な動きで細い息を吸った。目の力強さが少しずつ緩み始めている。瞬きが増え、反った背から力が抜け始めた頃、爪先で優しく腰骨の上を引っかくと、喉の奥で声が殺され身体が跳ねた。 (やば、…………) まだ全部触ってない。触ってないのに、自分のものはかなりきつい状態になっている。 息が乱れているのは黒子だけじゃない。酸欠なのか何なのか、頭がくらくらする。 「…………黄、瀬く……」 ちょい、と黒子の指が腕に触れた。そのせいなのか分からないが、ふっと頭の重さが外れた。完全に上半身から力の抜けている黒子をいまだに床に座らせていることに気付き、ほとんど条件反射で抱え上げ、彼をベッドへ横たえた。 なんだ最初からこうすれば良かった、とそんなことにも今頃気付く。身体を伸ばした方が、全身余すことなく抱きしめられるのだ。肩に胸に脚に、黒子の身体が触れる。 「…………ふ」 笑ったのか息苦しさか、どちらともつかない息を黒子が漏らした。 夢中になって抱き潰しそうになっていたかもしれない。腕の力を緩めて顔を覗きこむと、ぷは、と大きく口を開いた。苦しい方だったらしい。 「だ、大丈夫スか」 「普通に、息できないです」 「う、ごめんっス」 一旦腕を解いて身体を離すと、黒子がこれから潜水でもするみたいに深く息を吸い込んだ。一息つくと、隣でじっと見ている自分に視線をくれる。自由に動くようになった腕が、自分へと伸ばされた。 さら、と耳の上の髪が揺れたけれど、黒子から目を離せない。出会った頃なら気付かないほどかすかに、でも確かに笑っている。 「大丈夫です」 「…………」 髪に触れた手を取って、それに頬を寄せた。しばらくそうして形を覚え、手首から肘、肘から肩へ伝って、黒子の身体へ再び身を寄せた。落ち着く一方、別の場所がいいようのない速度で熱くなる。 ああ、そうなのか、と納得した。自分の持ち物である感情が、この身体の反応を作っている。 (オレとこの身体は繋がってるのか) ときどき分からなくなったそれを、ようやく理解できた。この身体にこの感情がくっついている。なら、黒子もそう、ということだろう。この身体に彼の感情。それが連動している、一つっきりのものだ。 (……大事にするっス) すん、と彼の匂いを吸い込むと、くらりと酔ったように籠もった熱が身体に満ちた。 >> 続 << 戻 |