秘密の場所 [ 3 ] |
黄瀬と話している間に、黒子は考えを改めた。 知られたくない、というより、今の黄瀬には知る必要がないことだと思えた。自分と黄瀬がどうであったかなど。 今の黄瀬は、今の黄瀬の世界で生きている。そこに無理矢理介入しても徒に黄瀬の意識を混乱させるだけだろうし、何だか空しい。 黄瀬が何に気付いていようと、よほどの証拠でもない限り黒子がしらを切りとおせば確定にはならないし、そのうちどうでも良くなるだろう。 一瞬小さく胸が軋んで、テーブルの下の手の平にそっと力を込める。 記憶がないのは一時的なものなのだ。本格的に戻らないなら、そうなってから考えればいい。 「教育係?オレの?黒子君が?」 ぽかんと口を開けていた黄瀬が、畳みかけるように問いを投げかけてくる。 「キミ、中学のときもその反応でしたよ」 目を細めて軽く睨むと、むしろさっきより真剣な顔つきで、じっくりと黒子を見つめた。両手の拳をテーブルの上に置き、声を落として尋ねてくる。 「…………実は黒子君てすげー選手だったんスか、ダンクばんばん決めちゃったり」 「ダンクしたことはないです」 「じゃスリーとか」 「スリーは苦手です」 「……まさかセンターってことは」 「ないですけど、『まさか』は失礼です」 「もー!じゃ何なんスか!」 あっさりと痺れを切らせた黄瀬が、身体を前後に揺らして憤る。そういうところはやはり同じらしい。対外的に一応格好つけてはいるけれど、リアクションが子供なのだ。 声を立てずに笑ったら、恨めしげに上目遣いの目を向けられた。 「黒子君、オレのことからかってないスか」 からかってません、と答えてから、自分のポジションは良く分かりません、と続ける。 「ボクは影ですから」 「……影?」 「そのうち対戦すれば分かりますよ」 教えてもらえなかったと思ったらしい黄瀬が、むーと膨れる。でも口で言うのは難しいんだから仕方ない。 黄瀬は諦めたように一つ溜息をついて、片手で髪をかき上げた。 「オレ、黒子君のこと好きなのかと思ったんスよ」 急に話を戻され、心臓の鳴ったのが分かった。外に聞こえない仕組みで本当に良かったと思う。それに一度息を吐けば、すぐに元に戻る。 やや飲み頃を過ぎたシェイクのカップに水滴がついている。それが落ちて、下の紙に丸く滲みを作った。 「やけに懐かれただけです。それにキミは表現が過剰ですから」 「そーみたいっスね。何かピンとこないっスけど」 とりあえず疑問は解決ということで、席を立った。ガラス窓の向こうはすっかり闇で、景色も見えない。店内の光がいやに明るく感じた。店を出ると生ぬるい空気に包まれたが、妙に落ち着く。 ごくまっとうなテンションの黄瀬と駅までの道のりを歩いて、黒子は感心した。まっとうだと、呆れたり叱ったりすることがない。今日黄瀬と過ごした時間を総じてみれば、彼に困らされたことはなかった。 靄のような疲れがぼんやり溜まっているのは、きっとうまく話をまとめることに気を遣ったからだ。 「悪かったっスね、ここまで来てもらって」 「キミが迷子になる方が危ないですから」 「……迷子にはなんないっス、覚えてなくても」 じっとり睨まれたので、それなら安心です、と言ってホームへ上がる階段の手前で別れを告げた。実際、記憶がない状態での生活に慣れてきたんだろう。前回会ったときより大分余裕がある。 背を向けて何歩か歩いたら、後ろの方で黄瀬が「あ」と何か思い出したような声を出した。黒子が振り返ったのと、黄瀬がそれを言ったのは同時だった。 「黒子っち」 「………………」 いつもと、自分のよく知っている黄瀬と同じ顔で、同じ声で、何てことのない普段の会話のときと同じ、すらりと通った目の形で、呼ばれた。 「って、呼んでたんスね。あと同中のあの人らのことも、んな感じで」 「…………そう、ですね」 認めた人には「っち」ってつけるそうです、と混乱した頭から何とか引っ張りだして付け足した。それから黄瀬といくつか言葉を交わして今度こそ別れたのだが、よく覚えていない。 電車に乗り込み、席に座っても目を閉じる気になれなかった。靄のようだった疲労が形を変え、頭が変に冴え冴えとする。 『黒子っち』 そんな、たった一言で。 一瞬ではあったけれど、思い出したのかと期待した。 当然思い出すに越したことはないが、あからさまに期待するほど今の黄瀬がひどかったり別人すぎるわけじゃない。対抗心がない分、出会った頃よりよほど素直だ。 思い返せば、別人だと割り切ろうとしていたはずが、会話の間も似ているところを探そうとしていた。似ているどころか本人なのだから、同じに決まっている。思考の混乱と矛盾ぶりが情けない。 (…………慣れでしょう) あまり振り回されてもいられない。 黄瀬が自分の記憶のないことに慣れていくように、自分も慣れる。 慣れるだろうか。 >> 続 << 戻 |