秘密の場所 [ 4 ] |
ミーティング始めるぞ、と集合をかけられ、自分が記憶をなくしてから二週間経っていることに気がついた。頭を打った翌日にそれがあったからよく覚えている。内容が全然理解できなかった。 (先週はここで練習メニュー増やされたんスけど) 今日は増えませんように、と祈りながら解散の号令を待つ。 最初は軽めだった練習も徐々に量が増え、今では元に戻っているらしい。こなせないことはないが、あと三十分でも何か増やされたら倒れる。 時計の針をちらりと見ながらじりじりと話を聞き流していたら、無事そのまま解散となった。このまま速攻帰ろう、と素早く扉に向かったのだが。 「黄瀬は帰る前にランニング十周な」 「今からっスか?!」 一番聞き慣れた声にそう言い渡され、振り向きざま素直に不満を口にする。手元のミーティング資料に向けられていた視線が持ち上がり、力強い眉の下の瞳がギラッと光った。 「それ位すぐだろうが!さっさと行ってこい!」 「オレもうくたくたっスよー!」 「くたくたでそんなでけェ声出せるか!」 キャプテン命令には逆らえない。結局はやるのだから、さっさと行くしかない。だがしかしだ。 教えられたメニューをこなし、チーム練習もミニゲームも、真面目にやった。何もさぼっていない。強いて言うなら練習量の現状維持を願った程度だ。 (つーか、追加メニュー今週三回目っス!) 走るのはいいが、何故かペナルティのようで不服だ。 それなのに、走り終えてからかけられた言葉は、なんだまだ余裕だな、だった。 「ふはーーーー」 帰宅後風呂から上がり、髪を乾かすのも面倒で濡れたままベッドに倒れ込む。力を抜くと一気に疲れが重量を増して、身体がマットに沈んでいくようだ。目蓋も重い。 (疲れたっスわ) 疲れた。本気でこれ以上は無理だ。どこら辺を見てまだまだ余裕、なのだろう。もう足も上がらないというのに。 (……なんか) ごろりと仰向けになって天井を見上げる。自分の部屋だという部屋。ちょっとスモーキーな青いカーテンが引かれている。物は取りやすいし、大体どこに何があるかは雰囲気で分かる。 でもまだ、この部屋を完全に自分のものだとは思っていない。 頭を打つ前と今の自分は、やっぱり違うということなんだろうか。 (前のオレってどんなんだったんだろ) 笠松は厳しいが、無理を言っていないのは分かる。いざ練習を増やされてみると、体力の限界は毎回自分が思っているより先なのだ。つまり、前はこれ位こなしていた。通常の練習以外にも。 『そんな体力余ってんなら誠凛まで走ってこい!』 と言われたことがある。確か先週だ。 セイリンとは何で、どこにあって、何で突然それが出てきたのか。それを聞けば、黒子がいる学校なんだそうだ。 (……黒子君、ねえ) その話と、やたら熱烈なメールの履歴を見始めたタイミングが同じだったから、余計に怪しく思ったのだ。 でも会って話したとき、彼の態度に友人以上のものはなかった。むしろ友達だよね?と確認したいくらい淡々としていた。中学時代の話を聞けばそれなりに納得もした。 笠松にもそれから黒子のことを聞いたら自分の認識とほぼ同じで、自分が一方的に追い回していたらしい。 そんな関係は周知の事実らしく、だったら邪推するようなことではないんだろう。 (と思ってるんスけど) どうも腑に落ちない。覚えてないのに腑に落ちるも何もないのかもしれないが、他のことなら、そうだと言われればそうですか、くらいに違和感なく受け入れられる。 でもどうしても黒子と自分の関係だけ、すんなり頷けない。頷いておきたいのに、あの送信メールの履歴群がそうさせてくれない。 いくら記憶がなくたって、自分は自分だ。 “自分なら”ただの友達にあそこまで干渉しない。その上相手はこれでもかと淡白な反応の黒子だ。 (わっかんねーー) このことだけがもやっとする。眉を寄せても唸ってみても、少しも思い出せなくてイライラする。 あーー!と口だけ開いて苛立ちを無言で発し、ベッドから起き上がった。タオルで乱暴に髪を拭きながら大股でクローゼットまで歩き、扉を全開にする。 (オレだけ情報量少なすぎるっス) 家宅捜索ぐらいしてもいいだろう。自分の部屋だ。 ハンガーにかかっているジャケットやシャツを端に寄せ、奥に立っている細い棚の前を空ける。ここに古い雑誌やら、普段使わないものが適当に置かれているのだ。雑多な整理具合だったから放置していたが、何かあるかもしれない。 卒業アルバムとかそのレベルでいいから、何か手がかりになるものがほしかった。目に見える、事実として残っているもの。 奮起して、手前のバスケ雑誌から取り出してみる。意外と奥行きがあって、雑誌の奥にも何かボトルのようなものが立っていた。 「…………え」 大分力んだ瞬きをしたのが自分でも分かった。拍子抜けするほど自然に、それはそこにあった。 決定的な何かではない。ただ、いきなり出てくるにはちょっと生々しい。アルバムなんてかわいいものじゃなかった。 薄いブルーの半透明な、いかにもなボトル。傾けると中の液体がとろりと重そうに揺れた。ボトルに残っているのは半分弱だ。呆然としたまま裏を返せば商品の説明シールに、性交時の潤滑剤に、と驚くほどあっさり印字されている。 思わず壁の立鏡に映る自分の姿を確認してしまった。タオルを肩にかけた、Tシャツとハーフパンツのナイスガイが、ぽかんと口を開いている。 (オレって、そんな?) 随分出来のいい見た目だなーと、初めて自分を鏡で見たとき、ごく普通にそう思った。練習中に女の子から応援されることも多い。握手を求められて最初は感動したが、その人数ももう覚えていない。 (実はすごいプレイしちゃったりすんの?こんなん使うって、……いや、まあ、使うヤツは使うだろうけど) 新たな自分を発見して若干引き気味な気持ちでいたが、待て、と冷静に考える。 彼女、または不特定多数の相手をしている形跡はどこにもないのだ。頭を打つ前までの自分は、部活と仕事以外の時間を全力で黒子に投入している。 ボトルを取り出して生まれた、棚の空間に目をやる。空っぽの暗闇で、もう何もない。ぼんやりそれを見つめながら、この間黒子と会ったのことを思い出してみる。 黒子の態度は友人すれすれかそれ未満。何せ表情が変わらない。うかつに変なことを言ったら白い目で見られそうな雰囲気さえあった。 でも。 『黒子っち』と口にしたとき。 彼の空気ががらりと変わった。呼ばれたわけじゃないとすぐに気付いた彼は、指摘する間もなく元の無表情に戻ってしまったが、それからの会話はどこか心あらずに見えた。 (もしかして、あの無表情の下に隠れてないっスか) 友人以上のものが。 取り出した雑誌を棚に戻し、机に向かった。携帯のスライドを押し上げる。 こうなったら、量が多すぎて読み返しきれなかったメールを全て洗うしかない。 (……何つーか、不思議な人っスね) 結局“今の”自分まで執着し始めている。 まあ、真実を知りたいだけっスよオレは、と何でか自分に言い訳をして、さくさくと携帯のボタンを押してメッセージを読み進める。笠松に言われた通り体力に余裕はあるのだ。多少寝不足になったって構わない。 「ねみー……」 日付が変わって眠気が押した頃には、もう事実確定になっていた。 最後に削除防止のロックのかけられたメールを読んだ。 珍しく黒子に優しくされて喜んでいるらしい。スクロールしていくと、消したくなかったのか黒子のメッセージがそのまま引用で残っている。 『 頑張りましたね 』 泣きたくなったのは、目が疲れていたからだと思う。 >> 続 << 戻 |