秘密の場所 [ 5 ] |
涼しくなりつつある夜気に混ざって、かすかに水の匂いが漂った。人気のない歩道を歩きながら右下のつむじを見下ろす。 どこか青っぽい黒子の髪は空気をはらんで、ところどころ跳ねていた。練習後にシャワーを浴びて、適当にしか乾かしていないに違いない。その下にはさっぱりと乾いた首筋が真っ直ぐ伸びている。健康的だけど、夜目にもそれはやけに白く映った。 観察していたら、黒子が顔を上げた。視線の理由を問われるのかと焦ったらそうではなく、目的の場所に着いたらしい。 「ここでいいですか」 「あ、うん」 立ち止まった先に目をやれば、使いこまれたバスケットゴールが一本、数本の電灯に照らされて立っているのが見えた。 誠凛で会ってから十分以上は歩いただろうか。住宅街の、随分と入り組んだ路地を通った気がする。まだそれほど遅くはないのに、フェンスで囲まれたコートの中にも外にも、全く人がいない。 『人がいないところで話したいんスけど』 部活も終わろうかという時間に突然訪れた自分を見て、黒子は一瞬目を大きくした。だがそれだけで、連絡もなしにやってきた理由も、人目を避けたい理由も聞かずに、見事に希望通りの場所まで連れてきてくれた。 (ほんと、動じないっつーか……) オレに関心ないとかだったら凹む、と気弱になりながら、黒子の後をついてコートに入った。 「で、お話は何ですか」 消えかけているフリースローラインを何とはなしに跨ぎながら歩いていると、黒子の方からそう問われた。 数歩離れたところから真っ直ぐ見つめてくるが、相変わらず表情が動かない。怒っているようにも見えないんだから、心底これが標準なんだろう。とは思うが。 (一応、っていうか思いっきり、オレと付き合ってるんスよね?) それは間違いないことなのに、本人を前にすると自信がなくなってくるんだから不思議だ。メールの相手は、黒子という苗字の別の誰かだ、と言われた方がよほど納得できる。 「黄瀬君?」 もっと本気で目を凝らせば、ほのかな恋心でも浮かんでいるんじゃないかと凝視してみたが、スポーツバッグの肩紐が一本ずれ落ちて、おや、という顔になっただけだった。この調子では朝が来ても、それっぽい表情など拝めそうにない。 諦めてバッグの中に手を潜らせ、家から持ってきたそれを黒子に差し出した。夜の闇と薄明かりの中で、青いボトルは深い海のような色に見えた。 「こんなの見つけちゃったんス」 黒子は素直に受け取り、最初は何だか分からない様子でボトルを傾けたりしていたが、例の性交云々という説明書きを目にした途端、思い切り顔を顰めた。渋い顔で絶句したまま固まり、しばらくそれを睨んでいたが、やがて苦々しい声で言う。 「…………キミ、これ今日一日持ち歩いてたんですか」 「え、うん」 (あれ?) さすがにこれを見せたら動揺するとか照れるとか、何か違う反応があるんじゃないかと思ったのだが、いつもの範囲とさほど変わらない。 (突っ込むとこ、そこなんスか) 予想以上の冷静さに驚いている間に、黒子は驚きから呆れた表情へとトーンダウンしていく。 「これを見せるために来たんですか?」 「そうっス。けど、あの」 「なら、確かに見ました」 一片の動揺もない返事と共に、突き出された手からボトルを受け取ると、黒子はくるりと背を向けた。 「じゃあ帰りますよ」 「え、ちょっと」 ためらいなく歩き出す姿に焦って引き止めたが、顔しかこちらを向いてくれない。 「まだ何かあるんですか」 「あるっスよ。つーか」 (まだっていうか、本題すらしてねっス) 一応黒子は続きを待ってくれているが、今にも帰ろうとする姿勢を崩さない。この展開の早さに戸惑っていたが、そんな暇はないらしい。前置きも何もなく、ストレートに言うしかない。 「オレの相手、黒子君スよね?」 今度は誤魔化されないっスよ、という気合いを込めて言ったつもりだった。 しかし全く効果はなく、黒子の周りだけ完全に秋になったようなひんやりとした空気が流れてくる。 「……そんなこと知ってどうするんですか」 淡々とした言葉に、何かがしんと沁み込んでいるようだった。痛いような何かだ。 「……ずるいっスよそういうの。ちゃんと答えてほしいっス」 別に無理なことも間違ったことも言ってない。だってそれは事実だし、本人同士で隠さなくてもいい。それなのに、何かひどいことをしている気になるのは何故だろう。 我慢勝負のごとく黙って待っていると、黒子は怒ったような空気を引っ込め、小さく溜息をついた。身体を半分こちらに向け、静かに答えた。 「そうですよ」 「何でこの間教えてくんなかったんスか」 「知らなくてもいいでしょう」 「よくないっスよ」 「……じゃあもう一度聞きますけど、知ってどうするんですか」 「どうって」 どうって。 どうもこうもない。 (でもそういうの、重要なことじゃないっスか) でも理屈が通っていないと答えと認められないような気がして、言葉として出てこない。すると黒子は一度目を伏せて、また出口の方へ身体を向けた。 「知っても困るでしょう。だから言わなかっただけです」 「困ってないスよ。そうじゃなくて」 「帰りますよ」 歩き始めた黒子の背が遠ざかる。まだちゃんと答えてないのに、彼の中ではすっかり結論がついている。 「待っ……黒子君!くろ……………黒子っち!」 ぴた、と彼の足が止まった。そうしてほしくて呼んだのに、胸の奥が重く沈んだ。 >> 続 << 戻 |