秘密の場所 [ 6 ] |
(呼んだだけ、っスよ) ”オレ”の真似をしただけ。黒子だってそんなことは分かってるはずなのに、そう呼ぶだけで立ち止まる。 「…………オレともしてみないっスか」 沈んだ胸の中から、黒い煙のようなものが立ち上る。掴もうとしても掴めない、覆っても滲み出てくる、いつまでも正体の見えない苛立ち―――――黒子と、自分への。 八つ当たりでもない。正しく、当人達にぶつけているんだから。 「思いつきでそういうこと言わないでください」 黒子の言葉を聞き流しながら、してみたらどうなるんだろ、とぼんやり考える。 「思いつきでもないっス。何か思い出すかもしんないじゃないスか」 「そういうもの見て変な気になってるだけですよ」 「だめなんスか」 「当たり前です」 「……………ふーん」 『無理させてごめんね黒子っち』 『ごめん言い忘れたっス!肩!見られると、あの、痕が』 『ほんとにごめんっス!じゃあ今度オレの肩噛んで!』 『黒子っち大好き』 メールを辿ったら、そんなのがぽろぽろ出てきた。そういうことをメールに書くなと黒子に毎回叱られていた。いつも自分のテンションが高いばかりであったけれど。 (でも、そういう”オレ”を拒んではなかったじゃん) ゆっくり歩いて、黒子の真正面に立つ。距離を詰めてみても、黒子にそれを避ける様子はない。 「オレだとだめなんスか」 「あの、黄瀬君」 それの何が引き金になったのか分からなかった。けれど、名前を呼ばれた次の瞬間には黒子の二の腕を取り、その身体を引き上げていた。 「………っい」 もう一方の手を首の後ろに回し、痛みを訴えかけた唇をふさぐ。無理に顔を上げさせてはいるけれど、それなりには屈んでいる自分の姿勢に、今さらながら身長差を感じた。勢いで重ねた唇を密着させたままずらして完全に合わせると、シャツの背が強く握り締められた。ぐぐ、と後ろへと引き剥がそうとする。 (それ、抵抗のうちに入ってないっスよ) もしかしたら抵抗というより、堪えているだけなのかもしれない。でも黒子が本気を出したとしても、力の差は明らかだった。 連日熱いメールを送り続けなくても、こういうことがしたいならできただろう。 でもいつだって、黒子を最優先にしていた。 こんな風に力にものを言わせて無理強いすることはなかったのだ。“オレ”は。 「…………っ」 舌を唇の表面に這わせたら、拘束している身体がびくりと震えた。下を向いて逃げようとする顔を手の平で止めて、上から覆うように口を開いて、それで結局。 頬から、そして握りしめていた腕から手を放す。 解放された黒子は大きく息を吸った。何度か荒い呼吸を繰り返して落ち着くと、はあ、と疲労とも安堵ともつかない溜息をもらした。 (…………放したっスよ) ちゃんと放した。完璧じゃなかったけど。 (だって、“オレ”は大事にしてたんだろ) 会いたい、も、寂しい、も、どうかと思うくらい始終メールに書いてあった。でもだからといって黒子にどうこう求めてはいなかった。どこか冗談めかして、ただ好意を伝え続けるだけで。 一番多かったのは、『黒子っち』の四文字だ。 その四文字に何がこめられていたか、オレだってもう分かる。だから黒子も“違う”と分かっていても、そう呼ばれるだけで立ち止まってしまうのだろう。 (オレだって、“黄瀬”みたいにしたいんスけどね) よく分からない弱音が勝手に出てきて、声の無い乾いた笑いが漏れた。一体誰に言っているのか自分でも分からない。内容もどうしようもない。 例えば黒子に無理を強いないとか。フォーメーションの話で時間を忘れるとか。目が合った女の子には微笑んで見せるとか。 そうやって前の自分のように振る舞ったって、そんなの周りの人間にとっては当たり前で。 『頑張りましたね』 なんて、そんな風には言ってもらえない。 ましてこんなことをすれば尚更だ。 「……オレここで、しばらく頭冷やしてくっスわ」 ごめんね。とだけ謝る。返事は待たずに身体を反転させ、適当にゴールに向かって歩き出す。ポケットに手を突っ込み、錆びついたリングを見上げた。 黒子の足音が消えて帰ってしまうまで、こうしていよう。そう決めて、聴覚だけは背後に向けて、時間が過ぎるのを待つ。 が。 一度カバンががさごそと音を立てた以外、一向に足音も聞こえない。 「…………あの、何してんスか」 恐る恐る首だけ後ろに巡らすと、両手で文庫本を広げ、姿勢正しくそれに視線を落としている黒子が目に入った。 (本……?) 困惑したまま声をかけると、黒子は「え?」と顔を上げた。開いている本にもう一度目をやって、見ての通りですけど、と真っ直ぐ目を見て答える。 「キミが帰らないようなので、本でも読んでようかと」 「……………もしかして待っててくれてる、とか?」 「それ以外何だっていうんですか」 「怒ってないんスか?」 「怒ってますよ」 そこはしっかり、む、と眉を寄せて答えた。 「そ、そっスよね」 (それは分かるんスけど。で、だから何で) さっさと読書に戻ってしまった黒子だったが、立ち尽くしている自分の姿が目の端にでも入ったのか、本から目を離さないまま口を開いた。 「こんなところにキミ置いて帰れませんよ」 道分からないでしょう、と付け足された。 声は平坦だけど、少しも冷たくない。 「………………分かんないス」 随分な時差とひどく間の抜けた声で返事をすると、意思の疎通が取れたと思ったのか黒子はまた続きを読み始めた。ページをめくる表情は変わらない。変わらないけど。 ないわけじゃ、ない。 多分言葉通り、さっきのことは怒ってるんだろうし、知らない間に帰り道のことを考えてくれたんだろうし、それで今待ってくれている。 今日会うまで、前の自分にはもっと素直に感情を出してるんじゃないかと思った。だから見つけたボトルを持ち出して、せめて動揺する顔を見たかった。 でも、黒子の感情表現はそういうことじゃないらしい。一見して分かりやすく出てこないだけだ。 心配してくれた結果、今本を読みふけっているように。 その場にしゃがみこんで、立ち読みを続ける黒子をじっと見上げる。最初は無反応だけど、しばらくこうしていれば「頭冷え終わりました?」と聞いてくるくらい、ちゃんと気にしてくれている。 頭はとっくに冷えていたけれど、何だか帰るのがもったいなくて、コートに座り込んだ。手を後ろについて空を見上げたら、カレーパンみたいな形の月がぽっかり昇っていた。じたばたした後に見ると、妙に平和な形に見える。 見上げていたら首が痛くなったので、仰向けに寝転んだ。制服汚れますよ、と黒子が言う。 「うまそーな月っスね」 「お腹でも空いたんですか」 「そういや晩飯食ってないっス。黒子君も……」 「ボクは部活の後パン食べました」 「え、ずるいっス!」 がば、と上半身を起こすと、黒子がふ、と小さく笑った。 (あ) 笑った。 本当に僅かだけど、細められた目に吸い込まれそうになった。 「帰りますよ」 マジバーガーなら付き合います、と言ってくれたので、大急ぎで立ち上がる。 今日何度も言われて、今になってようやく分かったことがもう一つあった。 「帰りますよ」は、怒りながらでも何でも、一緒に帰ろうとしてくれていたのだ。 >> 続 << 戻 |