秘密の場所  [ 7 ]
 タイミング良く部活が早く終わったその土曜日、誠凛の門の前に高尾を待たせ体育館へ向かった緑間は、遠くからやってくる一団の中にここにいるはずのない男の姿を黒子より先に認めてしまい目を疑った。能天気な金髪の横には、相変わらずの薄さで黒子が歩いている。
 緑間を驚かせたのは黄瀬がここにいることよりも、表情だった。甘さ増量な笑顔を一心に黒子に向け、ぴたりと張り付いている。三週間だか前に会ったときにはにこりとも笑わず、黒子に対して何の関心も示さずさっさと帰った人物と同一とはとても思えない。

 足を止めた緑間に気付いたのは黒子で、近くまでやってきてこんにちは、と挨拶を寄越すと隣の黄瀬も、こんちわっス、と愛想良くそれにならった。行儀のいい対応に記憶が戻ってないことはすぐに知れたが、面識のある相手だという認識位はあるらしい。しかしこの状況から察するに、黒子の元メンバーだからにこやかに挨拶をしている、という程度だろう。

「どうしたのだこれは」
 黄瀬を視線で示してみたが、目の前で自分のことを「これ」と呼ばれても全く意に介した風でもない。黄瀬は幾度か瞬きをしただけで、黒子が何と答えるのか大人しく待機している。
「部活も仕事も休みで、浮かれて遊びにきたみたいです」
「えー違うっスよ、黒子君に会いに来て浮かれてるんっス!」
 女子高校生のように語尾を上げた黄瀬の非難の声は、言い終わる頃には桃色の何かを含んでいた。黄瀬と緑間の二人分の視線を避けるように、黒子がわずかに顔をずらす。
「オマエはまた懐けたのか」
「懐けてません」
「そう!懐いてるんじゃないっス!オレ黒子君好きになったんスよー」
「どうもありがとうございます」
 明朗に言い微笑みかける黄瀬に黒子がまるっきりの棒読みで礼を言う。緑間は眉を寄せて再びその光景を疑った。

 黄瀬が黒子に対して今のような発言をするのは少しも珍しくない。黒子も緑間も慣れている。むしろ今の状態が本来の姿であるのだが、今の黄瀬は元の黄瀬ではないはずで、だからこそ奇妙な違和感があった。
 しかし他の部員は何とも思っていないようだ。通りすぎざま、じゃあなー早く帰れよー、などと次々言葉をかけて去っていく。黄瀬が頻繁に顔を出すことで他校の生徒の存在にも慣れているのか、緑間の姿を目にしても珍しいヤツもいるな、位の反応である。
 ここの連中は何故こうも呑気なのだと憤慨しつつ、緑間は一度深く息を吸って気を取り直した。すぐさま帰って自主練なり勉強なりに向かいたい部活後、わざわざここまで来た用事を済ませなくてはならない。

「オマエは今日これを持っていろ」
 制服のポケットから取り出したそれを真っ直ぐに突きつけると、黄瀬は怪訝な顔をした。
「……ヘアピン……スか?」
「そうだ」
 脇から何か小さな呟きが聞こえたのでちらりと見下ろしたが、黒子のつむじが見えただけで何を言ったのかは分からない。
「言っておくがオマエの分はないぞ。みずがめ座の今日のラッキーアイテムはドライヤーだ。家に帰って使うがいい」
「………………そうします」
 大分間を置いた黒子の返答の後、黄瀬がためらいがちに聞いてくる。
「いやあの、ヘアピンは分かるんスけど、何で持ってなきゃなんないんスか」
「オマエのラッキーアイテムだからだ。ヘアピンで髪を止めると探していたものが見つかるかもしれない、というから持ってきてやったのだよ」
 ますます難しい顔でピンを見つめだした黄瀬に説明を付け加えるべきかと口を開いたところで、携帯が鳴った。黄瀬の携帯だ。何故かほっとしたように点滅しているそれを取り出し、片手を軽く上げて断りを入れると、そのまま数歩離れていった。

「……覚えてないからやめた方がいいって言ったじゃないですか」
「だから持ってきてやったのだろう」
 諦めたような息をついた後、ようやく声が返される。
「…………ありがとうございます」
「オマエに持ってきてやったわけではない」
「まあそうですけど、何となく」
「何となくで礼を言うな」
「いいでしょう別に」
 どうしてこうも噛み合わないのか昔から謎のままだが、意思の疎通が思うように進まないことにも慣れてきた。自分たちにはそれぞれの理由と目的があって、それぞれに動いている。
 茜色に染まった空を見上げながら気のない笑い方で話をしている黄瀬にまだ戻る気配はない。あれが素の状態だろう。

「アイツはどうしたのだ」
 同じ質問を繰り返すと、先とは違う答えが返ってきた。
「黄瀬君なりに大変なんじゃないですか。記憶がないままやっていくのは」
「それとオマエに好きだ何だと言うのと何の関係がある」
「本当ですよね」

 珍しすぎるほど素直に同意して、黒子は黙った。それで緑間にも分かった。黒子の言葉は同意ではない。黄瀬の態度の理由が分かっているが言いたくないのだろう。
 黄瀬を見ているような、もっと遠くを見ているような黒子の目に、にわかに胸の辺りが落ち着かなくなった。黒子の沈黙は好ましくないものを予感させる。

「いつからあの調子なのだ」
「三日前からです」
「……大丈夫なのか」
「大丈夫ですよ。部活はちゃんと出るように言いましたから、体が極端に鈍ることはないでしょう」

 黄瀬ではない。オマエのことを聞いたのだ。そう言いたかったが、どうしてか口をついて出ない。
 言葉を探しているうち、問題の発生源である黄瀬はにこにこと笑いながら戻ってきた。そして突然思いついたように、あ、と顔を明るくして緑間に言う。

「緑間君も、一緒にバスケしてくれないっスか?」

「…………」

 その一言にそれまで考えていたことは一旦脇にそっくり置かれ、「緑間君」と言う黄瀬に対して初めて、誰だオマエはと思った。






「え」
「はいはい涼ちゃんパス!」
「ちょ、わあ!」
 受けるはずのボールを手に出来なかったショックを受けていれば、数秒も経たないうちにネットの鳴る音が聞こえる。
 高尾からのパスが突然現れた黒子によってボールの向きが変わり、気付けば緑間がシュートを決めているという繰り返しを、黄瀬は振り切れないままだ。点を取れたのは高尾が黒子の動きを読んでうまい具合に黄瀬にボールが通ったときだけで、シュートに移ることさえできれば外さない正確さはさすがだったが、点差はみるみる開いていった。

「誘っておいてなんなのだ、やる気があるのかオマエは」
「あるっスよ!めっちゃ頑張ってるじゃないっスか!つか黒子君見えないんスけど!」
「だから影だって言ったじゃないですか」

 わかんねー!と黄瀬が頭を抱えてしゃがみ込んだ。それももっともだと黒子は思う。
 親切の延長か、黄瀬の提案を受けた緑間と高尾と四人でミニゲームをすることになった。黒子のパスを何も知らない黄瀬が受けるのは難しいだろうし、黄瀬と緑間が組んだのでは揃って点取り屋になってバランスが悪い。それで黄瀬・高尾、緑間・黒子、の組み合わせになったのだが、これはこれでキセキの世代二人を組ませているのだから黄瀬チームの分が悪いのは仕方ないことだった。しかもどんなに話を聞いていたとしたって、実際目で見るのとは違いすぎる。緑間のシュートは初めて見た人間を呆然とさせるものだ。

 オレも一応”キセキの世代”だったんスよね?と黒子に聞いている黄瀬を見やった緑間は、ふいに立ち上ってきた苛立ちに眉を寄せた。テーピングを解いた手でスポーツバッグを掴み上げる。

「出直せ。相手にならないのだよ」

 肩をすくめて黒子と目を合わせた高尾を睨み、公園の出口に寄せていたリアカーに乗り込んだ。むすりと腕を組んで目を閉じる。軽い挨拶程度の二人の声は耳に入ったが、黄瀬の声は聞こえずじまいだった。


 ごとりと荷台が動き出し、風を感じてからしばらくして目を開いた。それを見ていたかのようなタイミングで、高尾が問いかけてくる。

「そーんな怒んなくてもいいんじゃないの?アイツ覚えてないんだろ?」
「覚えていようがいまいが、真剣にやらない奴は気に入らないのだよ」
「まあ確かにオレの知ってるアイツともちょっと違うけどさ、ある程度仕方ないだろーよ」

 確かに仕方ないのだろう。負けた悔しさも目標も覚えていないのだ。真剣味が変わってくるのも当然だろう。それでも緑間には許しがたい。眉間に皺が寄るのを止められないというのに、高尾のククッという笑いが聞こえてきてますます力が入る。

「真ちゃんてホント、アイツらのこと好きだよな」
「何を言っているのだよ。オレは今無性に腹が立っている」

 ウィンターカップが始まる前のこの大事な時期に練習に集中していないことも。
 深く考えもせず黒子に好意を告げることも。それを黒子がどんな気持ちで聞いているのかもろくに考えていないに違いない。

 黒子の心情がどんなものか、緑間にも分からない。しかし少なくとも喜んでいないことは分かる。黒子が ”また”、意思を伝えることや、分かり合うことを諦めてしまったらどうなるのか――――いつかのように。

 それを考えると、アイツは馬鹿か、としか思いようがない。
 記憶がありませんでした、で済む話か。一番そう詰るのは記憶が戻ったときの黄瀬自身だろう。それを含めて馬鹿だ。まったく腹が立つ。



「……おい、おーい!真ちゃんってば!聞いてんのか!」
「何だ」
 知らない間に話しかけられていたらしい。信号待ちとはいえ後ろを振り返っている高尾によそ見をするなと返したら、がーっと吠えられ溜息をつかれた。
「何なのだよ」
「ったくもー、だから、ラッキーアイテム渡してやったんなら、ちっとは早く回復するかもしんないだろって話!」
「当たり前のことを言うな」
「ああはいはい悪かったね。にしてもさー、黒子って案外面倒見いいのな」
「馬鹿を言え。いいわけないだろう。アイツは昔から黄瀬にだけ甘いのだよ」
「ふーん?」
 どこか面白そうな声音で高尾が返す。
「じゃあ余計心配しなくて大丈夫なんじゃねえの?」
「…………オレが心配しているような言い方をするな」
 ぷっと吹き出した上に、はいはい、とまた返事を繰り返すのも気に入らなかったが、言われてみれば自分のなすべき人事は尽くしたし、あとは当人達の問題だ。

 『緑間君』と黄瀬に呼ばれたときのことを思い出す。
 記憶がないのも大変だろうが、周囲も相当困惑するものだと身を持って知った。
 だからこそ頭は悪いくせに人の顔色に聡い黄瀬は余計に疲れるのだろう。元の好意を思い出せなくとも自分を受け入れてくれる黒子に甘えるのも無理はない。

 問題は黒子の方だ――――とまたもつらつら考え始めてしまい、緑間は溜息を吐き眼鏡をはずした。
 毎度そうやって面倒な関係を築く傾向のある二人だが、それでも黄瀬はどこまで甘えたって黒子の意を汲む努力を怠ったことはないのだ。あの別離を経て再開し、付き合うということになったのも、あの不思議なほどに湧き続ける根気が黒子の心を開いたのだろう。

 力みっぱなしだった眉間をほぐしながら、進み出した道路の先を眺める。
 ぼんやりとしか映らない視界の中で、車のバックライトに、街灯に、宵闇に包まれた街に小さな明かりが灯り始めていた。











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