秘密の場所  [ 8 ]
 やっぱり緑間君は厳しいなあと、ほんの少しの羨ましさを込めて、高尾と去っていく姿を見送った。
 後ろから数回ボールの弾む音が聞こえ、振り向くとちょうどそれはネットをくぐり抜けたところだった。地面へ落ちてまた弾む。

「俺、弱くなったんスかね」
 自分にはとてもできないような安定感のあるシュートを何の感慨もない顔で見つめていた黄瀬が、静かな声で問う。
 緑間の言葉に落ち込んでいる様子はなかった。半ば予想でもしていたかのようだ。

「弱くなったようには見えません。けど」
 本気でやっていないように見える。
 黄瀬はどんなに遊びのゲームだとしても、目の色が好戦的になる瞬間があるのだ。今のゲームにはそれがなかった。
 多分緑間も同じことを思っただろう。でもそれは言いづらかった。誰より海常の部員たちがそう感じているはずで、もしかしたらもう言われたかもしれない。ここ数日べったりと張り付いてくる黄瀬は、バスケの話をあまりしない。

「出るべき力が出てない、という感じがします」
 言葉を選んで告げると、黄瀬は眉をへな、と下げて笑って見せた。
「手ェ抜くなって笠松さんにも怒られるんスよ」
「でも抜いてないでしょう」
 黄瀬の笑みが一瞬固まった。困ったように寄せられた眉の下で僅かに目が伏せられる。口元は笑ったままだが、正真正銘の弱りきった顔だ。

「“キミ”は本気でやってるでしょう」
「…………うん」
 小さく返事をして、黄瀬は黙った。これは本当に彼の性分なんだな、と思う。どうでもいいときは愚痴も不満も何も考えず話すくせに、落ち込んでいるときほど話さない。

 本気かどうかなんてことは“前の黄瀬”と比べて勝手にこちらが判断しているだけだ。
 笠松だって分かっているだろう。でもそう言うしかない。どんなに黄瀬には仕方のない状況でも、黄瀬は海常のエースで笠松はキャプテンなのだ。ウィンターカップも迫ってくる。

 もっと気楽な環境ならゆっくり思い出せばいいとも言えるが、やはり自分だって全力の黄瀬と対戦したい。早く思い出してほしい気持ちと、今の黄瀬を尊重したい気持ちのどちらも選べず、かける言葉のどれも本心ではない気がして何も口から出てこない。

 でも一つだけ、この数日ずっと気にかかっていることがある。

「黄瀬君は……」

 聞かないできたのは、気が進まなかったからだ。自分と会っている間バスケの話題を出さない黄瀬の本心は、黒子にも図りかねた。

「バスケ、楽しいですか?」

 こんなことは聞かない方がいいのかもしれない。でも自分にとってそれは一番大事なことで、それに比べれば自分との関係など後回しどころか何だっていい。
 ただのエゴだと分かっているが、記憶がなくても、バスケだけは好きでいてほしいのだ。あれだけのプレイができる、泣きたくなるほど羨ましい才能を無駄にしてほしくない。

 問われたことが意外だったのか、黄瀬は何度か瞬きをしてから少し考え、うん、と何かに頷いた。含みのない素直な声で答える。
「楽しいっス、バスケは」
「……」
 ほ、と安堵したことを気取られなかっただろうか。そんなことを気にしながら続きを待つ。
「……まあ、今は元のオレに近付かなきゃってんでそれはちょい面倒っスけどね。でもやってるときは楽しいっスよ」
「……そうですか」
 苦笑混じりのそれは本音であるように聞こえた。
 黄瀬は逆に何か尋ねたそうな顔をしていたが口にする様子はなく、するりと目を空に向けた。もうすっかり日も落ちて、薄闇が夜空に変わろうとしている。

 こうして何時間か一緒にいても、自分は黄瀬を応援することも励ますことも、何もできないでいる。記憶を失ってから数週間になるが、やはり自分から積極的に何かしたことはない。思いつかないのだ。

(我ながらひどい……)
 自分のどこが良かったのか、改めて考えてみるとまるで思いつかない。大体この疑問を今頃初めて考えているあたりがいい加減だ。何せバスケで精一杯で、黄瀬の存在だって付き合うなんてことになるまでは基本的にバスケを通して見ていた。すぐに思い返せる姿といえばユニフォームに包まれた姿だ。

「あ」
 思い浮かべたら、今の黄瀬があの頃と重なることに気が付いた。
「キミ、中学の頃の自分の試合、見たことあります?」
「ん?うん、あるっスよ。部屋にDVDあって。中三のときのかな」
「二年の時のは?」
「それは……多分見てないっスね」
 どっかにあんのかなーと長い指を顎に当てた。
「始めたばかりの頃のだから、しまいこんでるんでしょう。多分……」
 どこかにありますよ、と付け足そうとして、口をつぐんだ。この黄瀬にとって自分の部屋は、知り尽くしている場所ではないのだ。その彼にとって「どこか」とは、本当に「どこか」でしかない。

(だったら)

「黒子君?」

(行けばいいんじゃないですか、ボクが)

 一緒に探せばいい。黄瀬の部屋まで行って。
 そうすれば早く見つかるだろうし、ついでに一緒に見て、黄瀬の知らない元の”黄瀬”の話をすれば、彼も助かるだろう。
 ごく簡単なことなのに、何故か声になって出てこない。

「…………その頃のキミの方が、今のキミに近い気がします。プレイ中ばたばた落ち着かないところとかそっくりです」
「オレ落ち着きないっスか?!」
「ないですよ。だから何か参考になるんじゃないですか」
 実力はもう上がっちゃってますけど、と伝えると、黄瀬は顔を輝かせて目を三日月型に細くした。子供のように、うん、と首を縦に振る。
「探してみるっス」
「はい」
 返事をしながら、胸が痛むのを感じた。
 どうして、一緒に探しましょうかと言えないんだろう。今からでもいいのに口が動いてくれない。


 駅までの道を、正体不明の自分の不親切に悩みながら淡々と歩いていたら、不意に黄瀬が「あ」と弾んだ声を上げた。
「?」
「黒子君、一緒にそのDVD見てくんないっスか。そんで色々教えてくれたら」
 名案、とばかりに黄瀬が明るい顔を向ける。

(…………)
 一瞬ほとんど呆然として、吸い込まれそうな気持ちでその顔を見上げた。
 なかなか感情のまま動けない自分に、黄瀬はいつも”お願い”という形で手を差し出す。そしてするすると、ゆるいリボンをかけるようにして引っ張り上げるのだ。
(……またボクは、キミにそうやって助けられて)

 しかしそんな自分の内面が表情に出ることはもちろんない。黄瀬のはしゃいだトーンが徐々に控えめになっていく。
「あの、そうしてもらえたら、嬉しいんス、けど」
「…………はい」
「あ、あの、アレっスね、とりあえず見つけてからっスよね」
「黄瀬君」
「はい」
 もうすっかり断られることを前提に意気消沈している。しぼんだ風船のようにしおしおだ。
「探すの手伝います」
「はい…………え?!」
「迷惑じゃなければ、ですけど」
 め、と呟いた黄瀬は、すうううと息を吸い込んだ。驚きすぎて呼吸が止まっていたようだ。その分をまた、声と共に吐き出す。
「迷惑って、んなわけないじゃないっスか!嬉しいっス!すげー嬉しい!」
「黄瀬君声大きいです」
「黒子君好きっス!!」
「分かりましたから」
 とにかくもう帰りましょう、と黄瀬を促して歩き始める。公園からもう公道に出てきているのだ。目立って仕方ない。

 じゃあ今晩これから探しますか、と決まってからは今にも抱きついてきそうだったので鍛えられた腹筋に一度拳をお見舞いし、黄瀬より先に立って黄瀬宅へ向かう。
 途中、道のりに慣れている気恥ずかしさが湧き上がったが、そのことで余計嬉しさが増したらしくにこにこしながらついてくる黄瀬の方に天秤は傾いた。

(ああ、もう)
 白旗を揚げそうだ。
 こうなってしまうのが怖くて、一歩距離を置いていたのかもしれない。黄瀬の言う「好き」と今自分が抱えている感情は似ていて違う。
 これが片想いっていうものですかね、と、黒子は以前の黄瀬を少し尊敬した。












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